アーサー・フェリル『戦争の起源』(ちくま学芸文庫)の第一章「先史時代の戦争」を読みました。ロシアによるウクライナ侵攻の関連本として書店に置かれているのではないでしょうか。第二章以降を読むかどうかはわかりませんが、信頼が置けそうな本だと感じています。
とくに欧米の人類学者が、先住民を凶暴だったとしたがることについては以前も書きました(→『暴力はどこからきたか』より……メモ)。しかし、アーサー・フェリル場合は、そういった断言を避け、考古学の資料に基づいてに語っているようです。
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本書では、考古学的証拠をもって、戦争の起源が《前一万二〇〇〇年〜八〇〇〇年にかけての亜旧石器時代および前期新石器時代(ひっくるめて中石器時代とも言われる)》としています。その時期に《武器技術に革命が起こり》ました。《すなわち、弓、投石器、短刀(あるいは短剣)および槌矛がそれである。こうした改革的な新しい武器技術の発達にともなって軍事上の戦術が考えだされるにおよんで、歴史的な尺度から見て初めて本当の意味での戦争が発生したのである》(32〜33ページ)。
以前は、農耕と定住のスタートは同じで、土地の所有や富の発生が戦争を生んだと考えられていました。しかし、近年は定住が先で、農耕までタイムラグがあると考えられているようです。(引用文の漢数字は算用数字に書き直しました。)
原始時代の武器の猛烈な威力のほどを知るには、古代ヌピアのナイル川沿いに広がる墓地の遺跡を見れば充分である。エジプトとスーダンの国境のスーダン側で、ワディ・ハルファの北方2マイル足らずのところにあるジェベル・サハバの墓地である。古代エジプト先史学の専門家たちは、この遺跡を「共同墓地117」と呼んでいる。1960年代に発掘されたもので、カダン文化(前1万2000─4500年)に属し、おおむね亜旧石器時代のものとされるが、少なくとも細石器が広範に使用されていたことや、実験的に農業が試みられていることからすれば、新石器時代初期のものかもしれない。(28ページ)
ジェベル・サハバの人口規模は書かれていませんが、最大150人と言われる部族社会よりも多かったのは確かであり、都市の黎明期だったはずです。共同墓地があるという時点で、彼らが定住していたのは自明です。農耕をしてなかったとしても、土地の占有は争いを生んだのでしょう。土地の独占は、良い猟場、漁場、農耕地など、利権を生むからです。
(略)この遺跡の発見により、先史時代に戦争があったことが、人骨に残された証拠にもとづいて一般的に立証されたと言えるかもしれない。
戦争にそなえて城壁を構えていたエリコ(パレスチナ地方)の集落は、2000人が暮らしていたと書かれていました。
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人間はもともと凶暴だったのか平和だったのかという議論がありますが、《実際には、どちらの説を立証するにも、証拠があまりに乏しいのだ》(27ページ)。まあ、そうでしょう。
人間の自然状態が利他的か利己的かという議論、今の私は不毛に感じます。
狩猟採集社会が幸せそうに見えるのは、人間の本質が平穏だからではなく、平等分配など社会のルールを徹底したからだと思うのです。彼らは50〜150人の血縁的集団ですから互いの顔や人となりを知っているから互いに共感しやすかったでしょうし、誰かが独占欲を見せると社会が維持できないと、経験上わかっていたと考えています。
ボルネオのプナン族は、小さいころバナナをカットして平等分配の練習をします。つまり本性は独占したいのです。
平等分配をし、移動をし、何も所有せず、狩猟採集によるその日暮らしを人間は何百万年も続けていました。環境を大きく壊すこともなく、人口爆発は起きなかった。持続可能性社会とはそのことを指すのではないでしょうか。
ひっくり返せば、人間がみんな独占したがる社会は、不幸せな社会ということになります。みんなが野放図に我欲を見せるのが資本主義。みんなが利己的にやっていれば「見えざる手」によって社会全体が経済成長するという話、信じられますか。