稲田豊史『映画を早送りで観る人たち』

稲田豊史『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ──コンテンツ消費の現在形(光文社新書)を読みました。興味深いことが山盛りでしたが、少々気疲れしました。

著者・稲田氏はライター、コラムニスト。もともとキネマ旬報社にいた方で、過去の著作を見るとサブカルに強い人らしい。

コスパ&タイパの若者たち

2021年12月、稲田氏が講師をやっている青山学院大学の2〜4年生128人を対象にアンケートをとったところ、「普段、映像作品を倍速視聴(早送り)しますか」という質問に「よくする」「ときどきする」と答えた学生は、65%超でした。「あなたは普段、映像作品を10秒飛ばし(何秒かのスキップを)しながら観ますか?」「よくする」「ときどきする」が計75%超でした。

早送りの傾向は若いほど顕著だというアンケート結果も明示されています。

彼らは、コストパフォーマンス、タイムパフォーマンスの良さを重視します。作品はコンテンツとなり、鑑賞は消費と認識しているようです。先に結末を知ってから消費する価値ありと判断したコンテンツを観る。難しいものを観るのは面倒だから全部説明してほしい。わからないものはつまらない。好きな物語を推し活するのを好むがそれを貶されるのを嫌う。したがって制作サイドも、説明過多で予定調和的な作品を作る……。

音楽も同様で、長いイントロなどは飛ばされるのため、サビから入る曲が増えているのだとか。スポーツ観戦は嫌い。推しが負けることがあるから。

生まれたときからスマホを持っていることもあるのでしょう。スマホアプリで目的地までの最短距離を検索し、廻り道を嫌う。だから彼らは「これさえ知っていれば成功する」と一直線のゴールに進む方法を語る人を尊敬してしまう。

私のようなおっさんは「映画やドラマを早送りするなんて、内容が理解できないし、製作者へのリスペクトが足りない💢」とつい小言を言いたくなりますが、事情は複雑です。

関東圏の私大9校の大学新入生を調査してみると、仕送りから家賃を引いた平均金額は、1990年に最高73,800円だったのに対し、2020年は18,200円に激減したそうです。生活費のためバイトに勤しむことになるうえ、昔より授業は出欠に厳しいため、可処分仕送りと可処分時間はとても少ない。追い打ちをかけるように、LINEグループではオススメコンテンツが流れてくるので、とりあえず、安い娯楽であるサブスクに入り、飛ばしながら観て話を合わせるというわけです。

思えば、世の中コスパ、コスパ、コスパ……

ここからは、私個人の考えです。

著者はことさら強調しませんが、若者の思考パターンは、今の行きすぎた資本主義社会を反映しています。

資格をとったりキャリアを積んで人的資本を高めろと言われ、働く人は人「材」とモノ呼ばわりされ、女は「産む機械」と言われ、同性愛者は「生産性がない」と書かれ、即戦力を生まない文系は要らないという風潮があり、いつ成果が出るかわからない基礎研究に金はかけません。安い労働力を得て最大の黒字を生むため、非正規雇用や外国人材を採用するシステムをつくります。

全部、コスパじゃねえか。どいつもこいつも損得勘定。チーン。

こんな日本に誰がしたのかといえば、与党政治家と官僚と富裕層です。

コスパ社会を是認する人々が増えていくと、社会は変わりません。もしも、Z世代と呼ばれる若者の半分くらいがコスパ思考で、今後も増えていくのだとすると、日本は沈没するでしょう。「最近の若者は『恋愛はコスパが悪い』と言うんだよ」と宮台真司先生がよく嘆いています。

コスパを意識し、損得を考えるのは利己的発想です。対して、利他は損得を考えない。

先のオリンピックのサッカーU-24で、こんなことがありました。日本が対戦する南アフリカの選手がコロナ陽性者となったときのこと、久保建英選手が、「僕らにとってマイナスではない。僕らに陽性者が出ていたらマイナスですけど、いまのところゼロなので、自分たちのことに集中したい。こんなこと言っていいか分からないですけど、損ではない。自分たちのことにフォーカスしたい」と発言したのです。(→サッカーダイジェストWeb

なぜ、ひとが病気になったのに損得勘定をするのか、私は開いた口がポカ〜ンと閉口しました。もしかすると、久保選手もコスパでものを考えるのかもしれません。

最後に、小咄を。

「どうかなさいましたか」
「すみません、道に迷ってしまって。あの、駅はどこでしょうか」
「あちらに歩いて突き当たりを右に曲がり、二つ目の信号を左折すると駅が見えますよ」
「ご親切にありがとうございます。助かりました」
「どういたしまして。…………になります」
「は?」
「税込み550円になります」

           チーン。

設楽博己『縄文vs.弥生』感想

縄文と聞いてイメージするのは土器や竪穴式住居ですが、定住した縄文中期以降の文化であって、私が知りたいノマド(遊動)的狩猟採集民ではありません。尾本惠一『ヒトと文明』(ちくま新書)に掲載されていた社会区分でいえば、縄文中期以降の人々は「複雑な狩猟採集民」(コンプレックス・ハンター・ギャザラー)または「豊かな食料獲得者」(アフルエント・フォーレジャー)です。リーダーがいたり、ちょっとした争いが増えた段階でしょう。財産が出来ると、相続の意識が生まれ、父系や母系社会になったりします。農耕の一歩手前と言える自然の改変もあり、集落の周りにドングリが実る樹を植えたりしています。(参考→『ヒトと文明』……ランニングから遠く(?)離れて - 狩猟採集民のように走ろう!

そんな私、書店で設楽博己『縄文vs.弥生』という本を見つけました。縄文から弥生に移行する過程を丁寧に書いてありそうだし、縄文文化を複雑狩猟採集社会と表記しているのに興味を持ち、読んでみました。

とくに弥生期の遺跡に、東日本と西日本で違いがあることや、縄文文化との融合の濃淡が見られることは興味深かった。みんな、「縄文はコレ、弥生はアレ」と単純化して話しがちですから。

第6章「不平等と政治の起源」は、複雑狩猟採集民に関して詳述されています。考古学界では長らく縄文時代は平等であるとされていましたが、1990年に《渡辺仁が専門の人類学をもとにして提唱した「縄文式階層化社会論」》が物議を醸したそうです。富の蓄積などを契機に平等社会が階層社会へと移行するのは人類学的な常識だと思いますが、その移行期にある社会を「トランスエガリタリアン社会」と呼ぶとあります。縄文中期以降はこの段階でありますが、まだ寡頭社会(ヒエラルキー社会)と呼べるほどの大規模な階層構造ではなく、多頭社会(ヘテラルキー社会)であったのだろうと書かれていました。

縄文期は世界のなかでも珍しく長く続いた新石器時代だったそうです。

西アジアや中国などでは、完新世の温暖化によって定住生活に移行したのち、まもなく農耕生活に入ったため、旧石器時代(打製石器を用いた狩猟採集経済)と新石器時代(磨製石器を用いた農耕経済)の境が比較的明瞭であるのに対し、日本はなかなか農耕に移行しなかったといいます。著者はその理由を《自然の資源、四季の恵みが豊かであったため、農耕への移行の必然性がなかったのかもしれない》と書いていました。日本列島は定住が始まっても狩猟採集生活を続け、《特異な新石器文化を形成した。それが一万年以上にわたる持続可能社会を築いた縄文文化である》。

「日本人は農耕民族だ」「日本は瑞穂の国だ」「田圃は日本の原風景だ」という人がいますが、稲作を始めたのは比較的遅かったのです。

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──以下、気になったところをメモします。

◎縄文期には、男性同士のカップルがいた可能性があるそうです。私のジョギング圏内で発見された遺跡にも、その証拠となる遺跡があるというので、そのうち調べてみます。性的マイノリティを対象にする「クイア考古学」があると知りました。

◎偶像や土器などの絵を見ると、縄文期の信仰の対象は多産のイノシシであったことがわかるそうです。弥生期にはイノシシは家畜化され、シカや鳥が信仰されたとのこと。伸びては脱落するシカの角が穀物の象徴であり、鳥は穀霊の運搬をしたと信じられていたのがその理由。

◎太古の昔、自力で生活できなかった人を養った例が多く見られます。縄文期の遺跡には、筋萎縮症患者を亡くなるまで面倒を見た形跡があるらしい。専門の武器がなく、争いで死んだ人は弥生時代の10分の1だとありました。

ドキュメント映画『イカロス』

Netflixで『イカロス』(2017米国、監督ブライアン・フォーゲル)を見ました。

サスペンスものの映画や小説で、主人公が国家の命運を左右しかねない犯罪に巻き込まれる、というストーリーがあります。そんなことが現実に起きるんですね。

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自転車競技の王者ランス・アームストロング選手がドーピングをしていたことが発覚、監督ブライアン・フォーゲルはショックを受けます。アマチュアの自転車競技選手でもあるフォーゲルにとってアームストロングは憧れでした。6年で150回検査したのにすべて陰性だったという話も驚きです。

フォーゲルは、自分もドーピングを試みることにしました。協力者を探してたどりついたのが、モスクワのアンチ・ドーピング機関(WADA)所長グレゴリー・ロドチェンコフです。ステロイド注射の方法や尿検査をすり抜ける方法を教わり、フォーゲルはレースに臨みます……。

自分の身体を使い人体実験をする話かな、と見ていると、物語は急展開。

2014年にソチオリンピックでロシアが組織的なドーピングをおこなった、とドイツのメディアが報じました。

政治と関係ないとか言っても、オリンピックは国の威信をかけた代理戦争です。メダルのためには組織的な不正も働きます。事実、メダルラッシュとなったロシアは大会直後大統領の支持率がグングン上がり、調子に乗ったプーチンはクリミア半島に侵攻しました。

不正が明るみに出そうになり、身の危険を感じたロドチェンコフは渡米、フォーゲルと合流したのちに、ロシアの手口を暴きはじめました。動画で見る限り、ロドチェンコフは聡明で誠実なおじさんに見え、フォーゲルとの友情も感じられます。物語の詳細はネタバレになるので書けませんが、ロドチェンコフやその家族の無事を願うばかりです。

もうひとつ書いておきたいのは、ロシアの国家的犯罪が明るみになってもIOCバッハ会長は決してロシア選手団を排除しなかったことです。オリンピックとは金儲けの場所。選手たちがフェアな条件で戦うことより大切なことがあるのでしょう。

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ロドチェンコフがジョージ・オーウェル『1984年』を読むシーンがあり、ダブルスピークという単語も何度も登場します。「戦争は平和なり。自由は隷従なり。無知は力なり」という有名なスローガンを知っていれば、最後のシーンがより理解できます。

今回のウクライナ侵攻で、プーチンはゼレンスキー政権をナチスと同一視し、「ナチスの汚れから祖国を解放する」と言っています。全体主義国家はダブルスピークを使うのです。ロシアでは「戦争」や「侵攻」と言うことは法律で禁じられ、「平和維持活動」と呼ぶというニュースも読みました。

日本も他国のことを言えません。敗走は転進、全滅は玉砕、敗戦は終戦、武器輸出は防衛装備移転、米軍機墜落は不時着、戦闘は武力衝突、シゴキはかわいがり……。公文書を改竄したり廃棄するところも、『1984年』の世界に似通っています。未読の方は是非。最初は退屈かもしれませんが、途中から読むのをやめられなくなります。

『ホモ・エコノミクス』

雨がやんだらロードバイクに乗ろうと思っていたのに、重田園江『ホモ・エコノミクス──「利己的人間」の思想史(ちくま新書)を開いたら面白く、読了してしまいました。政治・経済の説明の合間に挟まれる著者のつぶやき(嘆き?)がいい味出してます。

ちなみに、帯に使われたのはジャン=レオン・ジェローム作「ディオゲネス」という絵画です。ディオゲネスは、富や名声を否定し、樽のなかに暮らしたという古代ギリシャの哲人です。アレクサンドロス大王に「何か欲しいものはないか」と問われ、「日陰になるのでそこをどいてください」と答えたエピソード、どこかで聞きました。

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富を追いかける人間=ホモ・エコノミクスとはなんだろうと、書店でパラパラ立ち読みしたところ、経済オンチの私にもビシビシ訴えるものがあり、即購入した本です。

中世ヨーロッパのキリスト教社会では富は汚いものとされ、儲け主義の商人は蔑視されていたのだとか。しかし都市化や交易が盛んになるにしたがい、富に対する考えは変容せざるをえません。「富」と「徳」は長くせめぎ合っていたが、ついに「富」に軍配が上がりました。ホモ・エコノミクスの時代が到来したのです。

経済学の歴史は18世紀後半からスタートします。いろんな学派がさまざまな理論を唱え、数学などを援用しはじめたことなどが綴られます。政治学者である著者が、厖大な資料を渉猟したことが窺えますが、詳しくは本をお読みください。

そして現在。われわれは、利己的な資本主義が招いた、新自由主義の危機的状況を生きています。利己的なホモ・エコノミクスたちがコスパ重視で社会を回しています。具体例として、日本の大学改革が暗礁に乗り上げていることや、緑の革命が効率的な農業と引き換えに環境を破壊し途上国から搾取していることなどが挙げられていました。(経済学の方法が政治嫌いを生んだというコリン・ヘイの本はいつか読まねば)

人間は利己的なものだというホッブズ的な近代の人間観を擁護し、私利私欲が経済を支配した結果、悲惨な状況が生じた現状を手際よく整理し、批判した1冊でした。

では、利他的な人間観に基づく経済モデルはあるのか?──私は、平等分配の狩猟採集社会や、マルセル・モース『贈与論』に書かれた首長制社会のクラやポトラッチについての話をしたくなります。著者もどうやら未開社会を射程に捉えていたようですが、あとがきで《一つ残念なのは、人類学的な視座からのヨーロッパ近代資本主義についての批判的議論に、ほとんど言及できなかったことだ》と書かれていました。次著でぜひお願いします!

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ここからは長い蛇足。

昔から金勘定ばかりしたり、自分がよければよい、みたいな人や考えは苦手でした。むかしの子供向けドラマやアニメには、左翼的なスタッフがたくさんいたのか、「お金で買えないものもある」というセリフが頻繁に登場しました。それに影響された可能性も否定しません。

経済に関する、今さら聞けない疑問はいくつかあるんです。たとえぱ、「節約しなさい」という道徳訓がある一方で「消費をしなければ経済が回らない。金を使え」と言われるのは矛盾しています。「経済成長」という単語も不思議でした。成長し続け、人口増え続けて、地球はどうなるの?

日本のバブルははじけましたが、小泉政権あたりから新自由主義的な風潮がハッキリしてきました。人から分捕って稼ぐが勝ち。現代は損得勘定が最優先。費用対効果つまりコスパですべての価値が決まります。

巷では、勝ち組らしい人たちが後輩の拝金主義者に向かって楽して儲ける秘密を動画や書籍で公開しています。なんて親切な人たちでしょう。私は無視していますけど。

人間は人間であって資本やコストではありません。ところが、「人材」「人的資本」「生産性」なんて言葉が跋扈しています。

最近起きたいくつかの事故・事件を見てみましょう。知床遊覧船の事故も過度なコストカットが生んだ悲劇かもしれないと噂されています。秀岳館高校サッカー部の問題は、スポーツ強豪校になることで校名を宣伝し志望者を増やす戦略の弊害でないとはいえますまい。吉野家の幹部だかが問題発言をしたのは早稲田大の社会人向けビジネス講座だそうですが、なぜアカデミズムがビジネスの話をするかといえば、政府が「大学は助成金に頼らず企業みたいに稼げ」と言うからでしょう。コスパ・コスパ・コスパ……

数年前、狩猟採集生活のレポートを読み、資本主義の「外」があることに驚きました。たった数百年の市場経済のなかに生きてきた私は知らず知らず資本主義の価値観に飼い慣らされていたのです。未開社会の人たちは、色のついたペラペラな紙を巡って狂騒している人々を不思議がるはずです。

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今回紹介した本にはマルクスはほとんど登場しませんけど、斎藤幸平『人新世の「資本論」』に共感した方は面白く読めると思います。

狩猟採集民という救済?

磯野真穂『他者を生きる』を読みました。磯野氏の文章を読むのは初めてかな。集英社新書編集部はなかなか良い仕事をしていると思っています。

ごく大雑把に書きますが、死や病気に関して、われわれが常識と感じていることや、定型文みたいな情報発信を警戒し相対化する、哲学的な1冊でした。統計に基づく医療へのカウンターや、自分らしく在ることへの懐疑など興味深く、挙げられている参考文献のなかには読んでみたい本が何冊もあります。ただ、最終章は私には一読では理解しにくかった。後日じっくり読み直すつもりです。

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以下は、重箱の隅をつつくような話。観念的な内容なのに、形而下の考察をいたします。

第二部・第5章「狩猟採集民という救済」に触れたいのです。

「狩猟採集生活を始めた1万年前以降、人間は進化していないから狩猟採集的な生活をしたほうが不調知らずでいられる(大意)」といった言説が溢れ返ってているが、本当だろうか、という問いかけでした。その言説を用いた例として『スマホ脳』と『FACTFULLNESS』が挙げられています。私は前者を評価していませんし、後者は読んでいません(したがってAmazonとリンクせず)。

進化生物学と行動生態学が専門のマーリーン・ズックという学者の文章が紹介されています。ズックは、《狩猟採集民の暮らしは人間にとって最適であったと考え、かれらのように食べたり、生活をしたりすることを奨励する人々を「パレオファンタジー」(石器時代への幻想)と呼んで批判する。パレオファンタジーは人類学者のレスリー・アイエオが考えた言葉だ》とあります。少し長くなりますが、面白かったので引用しましょう。

 例えば糖質制限に見られるズックのパレオ派への反論は次のようなものだ。アウストラレピテクス・セディバやネアンデルタールの歯に穀物を採集・調理していた痕跡があることを挙げ、私たちの祖先が肉食中心だったというパレオ派の主張に疑義を唱える。加えて、人類は時代や場所に応じてさまざまな食べ方をしているため、ある時代の人類が同じ食べ方をしていたという見方にはそもそも無理があるし、仮に一部の狩猟採集民が肉ばかりを食べて生きていたとしても、そのことと、かれらにとって肉食が最適化どうかは別の話であると喝破する。
 さらに、農耕が始まってから1万年しか経過していないため、人間の身体は糖質過多の食事に適応できていないといったパレオ派がよくなす主張に対しては、1万年は充分な時間であると反論する。チベット人が標高数千メートルの高地で生活できるようになったり、乳製品を効率よく消化することのできる、進化したラクターゼ活性持続遺伝子を持つ人々が現れたりしたのはこの数千年であることからわかるように、人間の身体は短いタイムスパンでも変化しうるからだ。人類はある時期まで環境に完璧に適応した健康な生活を送っていたが、時代学下るほどそこから離れていったという考えは、進化についての誤解であるというのがズックの主張である。
 ズックはこのような形で、人間の進化はとうの昔に終着点に達したという思想を次のように批判する。

 座ることが多い生活は、不調に結びつきやすい。しかしその問題を改善するために、マンモス狩りをしていた原始人を見習うことはない。ただカウチから立ち上がればいいだけだ。

乳糖に対する耐性の話は、記述のとおりらしい。ネットで「ユーラシアの先史時代における起源から現代の多様性まで」(→PDF)を読みました。人間に限らずどの哺乳類も大人になるとミルクを飲まないので乳糖に適応する必要はなかったのですが、環境的にミルクの栄養に頼らざるをえない地域もありました。《乳糖耐性を獲得した人々が初めて出現するのは、人類が動物のミルクを利用するようになってから約 4,000 年後であることが分かりました》とのこと。4,000年かあ。

しかし、大人の人間がミルクを飲めるようになった事実は、穀物や砂糖に対する耐性を身につけた証拠にはなりません。麦、米などの穀物、芋などの塊茎、果物は品種改良によりどんどん甘くなり、砂糖の摂取量も多くなりました。しかし血糖値を下げるホルモンはいまだにインシュリンだけ。一方、血糖値を上げるホルモンは何種類もあります。人間は低血糖には強いけど、高血糖状態に馴れてないのです。……いや、もっと明解な事実があります。熱したデンプンや砂糖は人間の硬い歯を齲蝕させます。もしも歯科医院がなければ、虫歯に悩む人が激増するはずです。

(素朴な疑問。「アウストラレピテクス・セディバやネアンデルタールの歯に穀物を採集・調理していた痕跡がある」云々とあります。野生の穀物は今ほど粒がまとまって実らず、収穫しようとしたら飛び散ると読んだ記憶があるんです。脱穀の方法も知りたい。まさか精麦・精米まではしませんよね。生で食べていたのか……?)

人類が千年単位で環境に順応できるのであれば、「座ることが多い生活は」で始まる引用文は謎です。仮に現代人が長時間座って不健康になるのなら、カウチに座り続ける環境に順応するのを待てばいい。(ちなみに、アフリカのハッザは10時間以上座っているという研究もあり、長時間座ることが身体に害を及ぼすかどうかも実際わかってないようです)

私は糖質に適応したとは考えてないので、「糖質過多が多い生活は、不調に結びつきやすい。しかしその問題を改善するために、マンモス狩りをしていた原始人を見習うことはない。ただ穀物摂取を減らし、砂糖を使わなければいいだけだ」と書いちゃいます。

とはいえ、「何をどのくらいの割合で食べればよいか」に関して私が正解を用意しているわけではありません。現代の狩猟採集生活者も、ときたまハチミツを食べる以外は、甘く品種改良されてない塊茎や果物などで炭水化物を摂っています。

自分の身体で人体実験してみればいいのです。穀物を食べるさい精白されてないものを試してみるとか、砂糖断ちをしてみるとか……。完全肉食生活も、イヌイット式の完全肉食生活をするには探検家・人類学者ヴィルヤルマー・ステファンソンの記録などが参考になるでしょう。13年間、果物以外口にしていないという中野瑞樹さんの生活にも私は注目しています。(→中野氏Twitterアカウント

──これが、私のひとまずの意見です。マーリーン・ズックの本は課題図書に加えておきます。

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最後に、私の立場を整理しておきましょう。

狩猟採集民のレポートを読むことで現代生活を見直しています。人間は本来どのように暮らしていたかを類推するために狩猟採集民をよすがにすることはありますが、狩猟採集民イコール原始人だと単純に考えているわけではありません。無文字時代の生活や考え方がわかるはずがないからです。だから私は「太古の生活を続けているといわれる狩猟採集民」くらいの表現をしているはずです。

考察の対象は、あくまでも人類学者などが記録した最近の狩猟採集民。資本主義の外にいて、国家の観念や法律もない生活を見ると、自分たちの当たり前を考え直すきっかけになります。

『他者と生きる』には、ある集団を「平均人」としてまとめる危険について語っています。これは大切なことで、サバンナ、ジャングル、海洋民、極北の狩猟採集生活者を十把一絡げにすることはできませんし、集落のなかにも多様性があります。人類学が「狩猟採集民はみんな○○だ」「日本人はみんな真面目だ」と認定しがちなことが批判されているのも肝に銘じています。それでも、平等分配主義など、狩猟採集生活には共通性があり、それらを慎重に拾いだして我々の社会と比べています。

サッカー部コーチの暴行について雑感

秀岳館高校サッカー部のコーチによる暴行事件、注目しています。

4月20日、30代のサッカー部コーチが高校生に暴力をふるう動画がSNSで拡散されました。22日に開かれたミーティングで、サッカー部監督が、動画をアップさせた生徒を「加害者」呼ばわりし、自分を「完全な被害者は俺」と発言、その音声も流出。23日、3年生が騒動を主体的に(ではないのでは?)謝罪する動画がアップされるも、のちに削除されます。学校は、5月5日にパワハラに関して謝罪会見したものの、上級生から下級生への暴力問題なども明るみになっているようです。

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部活ふくめ日本の学校現場の指導を一言でいえば、「ガキは黙ってろ」です。生徒が絶対的な上下関係や理不尽な校則を疑ったりしようものなら、徹底的に頭を抑えつけます。考えたり反抗したりすることを徹底的に抑圧するのです。結果、「お上に逆らうもんじゃねえ」と萎縮する社会の歯車が育ちます。社会に出て、「指示待ち人間になるな」なんて言われますけど、自発的に仕事するはずがありません。

必読の1冊『スウェーデンの小学校社会科の教科書を読む』にはこんなことが書かれています。スウェーデンの小学校高学年が学んでいる社会科教科書の第2章「メディア」より。

あなた自身も社会に影響を与えることができます。あなたが世論を形成してオピニオンリーダーになる方法は、新聞への投書、FacebookやTwitterなどSNSの活用、人を集めてデモをすること、政治家に直接訴えることなど、です。説得力のある文章を書くために自国語を学びましょう、ともあります。

(略)学校の職員や両親、近所の人々、コーチ、そして最終的に政治家を味方につけるためには、誤字などの誤りがなく、正しく書くことが重要となります。あなたが、しっかりと準備が整っており、ちゃんとした文章が書け、そして自分の意見を冷静にしっかりと伝えることができるということを示しましょう。

学校が髪型や服装に決まりを作っていたら、奇抜な恰好で登校してみよう、という記述にもビックリしました。《髪型やファッションを変えて規範を打ち破ってやろうとするなら、それを何度も繰り返しているうちに、それでいいのではないかと思われるようになるかもしれません》。私は人権を侵害する校則とは徹底して戦うべし、と考えていますが、まさか、教科書にそう書いてあるとは。

日本と違い、自分の頭で考え、行動する人間を育てるスウェーデンの教育。グレタ・トゥーンベリを生み出した国は日本と違い、子供も一人前の人格として扱っています。

私は、今回、秀英高校サッカー部部員が、暴力行為を訴えるために動画をSNSに公開したことは、完全に正しかったと考えるのです。学校に訴えても潰されるでしょう。高校生自らが発信したことを大いに讃えたい。他校の生徒も、変な校則や部活の規律があれば、どんどん同じ手段で世論に訴えればいいと考えます。みんな、不当な圧力に負けるな!

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学校における部活が軍隊式なのは、戦後のスポーツ指導が軍隊経験者によってなされたからだという論文を読んだことがあります。

ショックだったのは、暴行したサッカー部コーチが30代だったということです。鉄拳制裁の指導を疑問視する声はだんだん大きくなっていて、皆無にならないまでも、若い世代は継承していないのではないか──いや、違うな──継承していなければいいな、と願っていたからです。

男性中心主義、マイノリティへの差別、いじめなどといった旧弊な価値観をなくすのは並大抵のことではないと溜息をつきました。それでも、社会をよりよくするために、考え、発信しつづけていかなければ。

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「風」と広島風お好み焼きについて

あなたは「風」(ふう)について、真剣に考察したことはあるか!?

  • なになにスタイルの「風」
    広島風お好み焼き、関西風お好み焼きの「風」は、広島や関西でつくられるタイプのお好み焼き。これらは概ね「なになにスタイルの」でいいようです。「古風な服だね」という場合も、古いスタイルの服だね、という意味ですね。
  • 及び腰の「風」
    インド風カレー、タイ風カレー……。このあたりの「風」はやや曖昧な表現です。堂々と、インドカレー、タイカレーと謳う店もありますから、少々自信がなさそう。「本場の味そのものかと言われたら、あの、その、もごもご」と及び腰に見えてしまう「風」です。
  • ……ではありませんの「風」
    ところが、そば屋の幟に書かれた「手打ち風」ときたらどうですか? この「風」は「手打ちではない」という否定の意味を確実に含んでいるのです!

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と、いつものジョークでした。

中国新聞の記事をリンクします。

広島風お好み焼きという呼称に違和感を持つ人の意見を引用します。

「広島風」に納得いかないのは東区の主婦(62)。「本流に対して亜流というニュアンス。関西のものがスタンダードと言われているようで…」。南区の40代男性も「大阪人に広島風と言われたら、必ず大阪風と言い返す」と、鼻息荒い。

「広島風」と呼ぶことは、《本流に対して亜流というニュアンス》なんでしょうか。となると、広島県民が「関西風」と呼べば、あちらが亜流になるんでしょうか。

広島出身の私。日常会話では「お好み焼き食いに行こうやあ」と言いましたが、昔から「広島風」を頭につける呼び方はありました。「お好み焼きゆうたら、広島のもんなんじゃけ、わざわざ『広島風』つけるなや、おんどりゃあ」という屁理屈は、私が上京したあとで蔓延したような……。

「広島風」はオーケーなんですが、一方で、昔は耳にしなかった「広島焼き」とか「広島お好み焼き」という呼び方には反撥を覚えます。私は原理主義者ではありませんが、保守的なのです。「広島焼き」にいたっては原爆を連想しちゃいます。

ちなみに、広島のお好み焼きはキャベツや豚肉や焼きそばを重ねて焼きますが、具をまぜて焼く関西風お好み焼きチェーン「徳川」も地元で人気です。学生時代、帰省したときなどによく友達と行きました。ビール飲みながらワイワイ焼くのも楽しいもんです。

あ、思い出したのでもうひとつ──。ずっと前の話、女友達と2人で東京で広島風お好み焼き店に行き、同じお好み焼きを2枚注文したら「なぜ2種類のお好み焼きを注文してシェアしないのか」と不満げなのでビックリしました。広島の友人同士で分け合ったことなどありません。具やソースは基本的に同じだし、シェアなんてしなくていいんじゃなかろうか。