狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

水田珠枝『女性解放思想の歩み』とルソー『女性の解放』

 生まれ落ちたときに、股におちんちんがついているか否かで、運命が大きく変わる社会。

 1965年生まれの私は、生まれて30年くらいはあまりそのことを疑っていなかったのです。ウーマン・リブ(Women's Liberation)や中ピ連(中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合)なんて、子どものころのことでもあり、理解できなかった。うちの家庭は父親が絶対的な権力を誇っていたわけではありませんが、巷では、敏いとうとハッピー&ブルー「わたし祈ってます」1974や、森雄二とサザンクロス「足手まとい」1977、さだまさし「関白宣言」1979、松山千春「恋」1980などが流れ、女性は謙抑的に生きるものという旧来の考えを多くの頭に植えつけていました。私は「女ってしんどいんだな」と感じたものです。

 それでも次第に、たまたま生まれたときにおちんちんがついてなかっただけで差別される女性のことを理解してきました。差別について学んでいくなかで、女性差別も射程に入ったのです。当然ながら上野千鶴子らの本に教わることも多かった。

 このたび水田珠枝『女性解放思想の歩み』(岩波新書、1973)を読みました。もっと早く読んでおけばよかった。水田氏は1929年生まれで、今年亡くなったとのこと。世界の思想史のなかで女性解放がどのように位置づけられていたか、概観しています。水田氏は、邦訳のない西欧の文献にも多くあたっているようです。

《たとえば、ルター、カルヴァン、ロック、ルソー、ベンサムは、いずれも古い権力にたいしてはげしい反撥をしめしながら、女性にたいしては男性の権威を強く主張する。つまり、封建的秩序からの人間解放とは、男性の解放であり、男性のあいだでだけ平等な人間関係をつくろうというのであって、解放を女性にまでおしひろげようというのではなかった》(18p)。なるほど。

 デカルトの合理主義が──デカルト自身は女性解放を理論化しなかったが──《かれにはじまる合理主義によって、第一に、一切の権威や習慣をうたがう道が開かれ、第二に、すべての人間の平等性を主張する根拠があたえられた》(37p)。なるほど、なるほど。

 宗教革命もフランス革命もロシア革命も女性を救済しなかった。資本主義は女性を抑圧する(男は外で金を稼ぎ、女は家で次世代を養育する)システムですが、マルクスやエンゲルスも女性解放という意味では充分でなく、ジョン・スチュアート・ミル『女性の解放』1869をもって嚆矢とするらしい。勉強になりました。

 ミルの『女性の解放』も岩波文庫で通読しました。

 私は、たとえばクオータ制で国会議員の3分の1を女性にしてもいい(本当は半分でもいい)と考えています。50年前は、まだ「女に教育は要らない」なんて人があちこちに存在しましたが、女性の権利を奪うということは、学問の才能がある人の半分を強制的に斬り捨てることになるのです。社会の大きな損失ではないですか。そんなこと、ミル先生は、150年前に指摘しているのでした。

 水田氏は《女性解放の道の探究は、ようやくはじまったばかりであり、わたくしたちはまだ「従属の歴史」のなかにいる。この「歴史」に終止符をうつ唯一の方法は、わたくしたちひとりひとりが、探究に主体的に参加することではないだろうか》(202p)と結びます。以来60年余、目覚めた人は増えたでしょうが、男尊女卑的な風潮はいまだ根強くありませんか。よくTwitter(X)で、女性蔑視をする人と議論しますが、家父長的な考えを疑うことなく──つまり自分の頭で考えず誰かの意見をコピペして──語る人の多さに驚かされます。

 先の皇室典範改正法案のことを思い出してください。皇室は日本の階級社会を「象徴」していますが、さらに、女性差別をも「象徴」させられているわけです。こんな理不尽なことありますか。

堀場清子『青鞜の時代』と金子幸代『鷗外女性論集』

 平塚らいてうが、森鷗外に感謝していることは以前書きました。

 1884[明17]年から1888[明21]年の独逸留学中、森林太郎は、ドイツ女性がボートを漕いだりスケートをしていることに驚いています(つまり日本女性はそんなことできなかったのです)。それでもドイツの女性解放はヨーロッパの中では遅れていたのだとか。「独逸婦人会」に参加して、ドイツの女性解放運動を学ぶことで、日本女性の境遇について考えるようになったのでしょう。

 そうしたことは、金子幸代編・解説『鷗外女性論集』(不二出版、2006)にまとめられています。私は、学生時代、鷗外が日本女性の抑圧を描いているようだと直観していたのです。ただ、断言するにはいたらなかった。そのうえ、社会一般もそうだったのでしょうが、私はフェミニズムについて理解できているとはいえなかったのです。以来約40年、私も少しは知恵がついたし、鷗外と女性解放運動についての研究も進んでいました。

 鷗外は、樋口一葉、与謝野晶子ら女性作家を高く評価しました。「与謝野晶子さんに就いて」(「中央公論」1912[明45]年6月)では平塚らいてうについても言及しています。

 序(ついで)だが、晶子さんと並べ称することが出来るかと思ふのは、平塚明子さんだ。詩の領分の作品は無いらしいが、らいてうの名で青鞜に書いてゐる批評を見るに、男の批評家にはあの位明快な筆で哲学上の事を書く人が一人も無い。立脚地の奈何(いかん)は別として、書いてゐる事は八面玲瓏である。男の批評家は哲学上の問題となると、誰も誰も猫に小判だ。

「青鞜」関連の女性作家は断片的にしか知らないので、堀場清子『青鞜の時代』(岩波新書、1988)を読んでみました。作品や評論を通じて良妻賢母的な生き方に反抗するなどさまざまな因習(コンベンション)を排そうとし、ときに会員同士で議論をし、奔放な恋愛でワイドショーネタを振りまいた「新しい女」たちがたくさん登場します。貞操論争、堕胎論争、売春論争など、性に関する問題についても斬り込んでいました。

 当然、男という、生まれたときお股にちんちんが偶然ついていただけで利権を手にした人びとから批判を浴びせられ、人間関係は新聞雑誌を賑わせます。しかし女性解放運動は次第に萎んでいき、社会はキナくさくなっていくのでした。

 以下は雑感です。伊藤野枝を読み直そう。大杉栄の印象が少し変わりました。生田花世も興味あり。岩野泡鳴ってつくづくクズ男ですな。

8月のラン

 8月のランは、目標150kmに到達させて終了しました。ご覧のようなゆるゆるジョグばかりです。キロ6分切った日が2回ありますが、涼しかったから。地震が起きた熊本県は酷暑続きでしたが、東京は、比較的朝晩が涼しい8月でした。

 5月120kmに始まり、毎月10kmずつ増やしています。大会に出るとか、そんなつもりはなく、単に健康ジョギングなんです。体重は62.5kgまで落とそうとしていますが、今月はときどき65kg台になっては元に戻る……を繰り返しました。ふひいい……。

 最後の土日は広島で母親の一周忌でした。30日は、広島のホテルに体重計がなかったからです。土日はほとんど図書館通いで本や論文を読み、原稿を修正していましたが、論文は応募しました。ブログにたくさん記事を書きますよ。

 9月のランの目標は、平日中心に160km走り、土日のどちらかはロードバイクに乗るつもりです。

河内春人『継体天皇』

 話題の、河内春人『継体天皇 六世紀に現れた世襲王権の「始祖王」』(中公新書)を通読しました。

 5世紀までは、複数の豪族から推薦された大王が選ばれていましたが、6世紀初頭、北陸から選ばれた豪族が即位して継体天皇となり、以後、世襲王権が続きます。継体天皇は応神天皇の五世孫とされます。おそらく万世一系の考え方に対するカウンターとして読まれているのだと思いますが、話題は、朝鮮半島との関係など、継体天皇時代のあれこれにわたります。

 私は神武天皇がいたとは考えてないし、まして万世一系とか明治の発明ですし、ヤマト政権や権力争いより先住民のほうに興味があります。そもそも王権とか血筋とかどうでもいいのです。それでも、史料が乏しいうえ信憑性の低いあれこれから事実を引きだそうとする研究者の努力には頭が下がります。

水沢不二夫『検閲と発禁』「 Ⅱ 鷗外の戦い」

 今回、鷗外の論文を書くにあたっていろんな本を読んだんですが、もっとも衝撃を受けたのが水沢不二夫『検閲と発禁』(森話社)の「 Ⅱ 鷗外の戦い」でした。

 明治期、内務省による事後検閲が行われていました。事後検閲とは、発行されたのちに内容を確認して発売禁止にすることです。

 1909[明治42]年、森鷗外(林太郎名義)「ヰタ・セクスアリス」が風紀紊乱を理由に処分されることとなり、掲載誌「スバル」が発売禁止になります。軍医・林太郎は高級官僚であり、また文部省により文学博士の号を与えられていましたが、内務省はそんなことに配慮しなかったようです。さらに翌年5月、大逆事件が起き、社会主義者や無政府主義者が逮捕され、社会を揺るがせます。幸徳秋水ら、でっちあげで逮捕・処刑された者もいました。

 鷗外は、大逆事件直後の1910[明治4]年7月から7ヶ月連続で「反検閲キャンペーン」を張ったと水沢氏は指摘します。

 ・「ル・パルナス・アンビュラン」(1910年6月)
 ・「花子」(7月)
 ・「あそび」(8月)
 ・「ファスチェス」(9月)
 ・「鷗外森博士と語る」(10月)
 ・「沈黙の塔」(11月)
 ・「食堂」(12月)
 ・「蛇」(1911年1月)

「沈黙の塔」は、パアシイ族が外国から来た「危険なる洋書」──無政府主義や共産主義など──を読んだ仲間を捕らえて殺し、塔の上で鳥葬にするという寓話です。《芸術の認める価値は、因襲を破る処にある》のに、因襲を破ろうとすると罰せられるのですから言論統制は芸術家にとっては至極重大な問題でした。

 この後、1912[大正2]年から、鷗外は歴史小説や史伝を連作します。「興津弥右衛門の遺書」「阿部一族」「佐橋甚五郎」「護持院が原の敵討」「大塩平八郎」「堺事件」「安井夫人」「栗山大膳」「山椒大夫」……といった具合です。

 私、大学生のときにざっと歴史小説を読んだんですが、つまらなかったのです。鷗外は自作解説「歴史其儘と歴史離れ」(1915)では、自分は歴史小説を史料そのままに書くとか、ちょっと史実に束縛されて苦しくなったので伝説を下敷きに「山椒大夫」を書いたが《なんだか歴史離れがした足りないやうである。これはわたくしの正直な告白である》と書いているんですが、当時の私は「歴史そのまま書いたものなんか読みたくないよなあ」と感じたのです。今はそりゃわかりますよ。史料選びにも作為は反映されるし、そもそも鷗外は「因襲を破る」のが芸術だと自分で書いているから、なんらかのメッセージが籠められているのです。

 水沢氏は、歴史小説にも国家批判が籠められていると書きます。「歴史其儘と歴史離れ」などの自作解説は、検閲に対する目眩ましだというのです。「山椒大夫」に、工場法や児童労働、統治システムの批判が隠れているなんて、言われてみれば確かに、でした。

 大逆事件以降の鷗外作品には煙幕が幾重にも張られているのです。その煙幕を取り払えば、100年以上誤解されてきた作品の真実が見つかるかもしれません。私の論文にも援用させてもらいましたよ。

論文、終わった〜

 森鷗外関連の論文、原稿用紙にして40枚分余りを書いてさっき郵送しました。毎週、土日に図書館に通い(だからほとんど平日しか走らず)、そのたび何かしら発見があり、完成したと思っていた文章を削ったり修正したりして、そんでまたちょっとした表現を変えたりして……の繰り返しでした。大学時代に書いた原稿を加筆するだけのつもりだったのに、ずいぶんかかりました。某研究会の機関誌(販売はされないけど、図書館には並ぶような論文集)に応募するんですが、ずっと推敲してしまうので、えいやっとプリントして、もう読み直すことなく封筒に入れて送ってきたのでした。

 権威に楯突くような表現はしていませんが、100年間のあいだに定着した解釈をいくつかひっくり返しています。査読を通らない理由があるとしたらそこかもしれません。

 まあ、いいや。やり尽くしました。       

ナウマンと鷗外の論争

 まだ鷗外ブームが続いています。

 本日は、ドレスデンで行われた地質学者ハインリッヒ・エドムント・ナウマンの日本に関する講演と、それを抄録した記事に対する鷗外の反論と、それに応答したナウマンの論争について読みました。お雇い外国人ナウマンは、フォッサ・マグナを発見したことで有名です。約10年間、日本全国を調査しました。

 論争は1886(明治19)年のことですから、ナウマンが30代、鷗外が20代。ドイツの新聞紙上で行われたものですが、小堀桂一郎著『若き日の鷗外』(東京大学出版会)に日本語訳が出ています。

 一読したところ、ナウマンはおおむね日本を正しく評価しているように思えます。鷗外への反論も落ち着いており、鷗外は分が悪い。若気の至りでしょうか。小堀氏の評価も、ナウマンの日本評を認めたうえで、この論争の先に日本の西洋文化・文明の受容について論じていました。