狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

人型ロボット

 中国のロボット運動会が開かれたというニュースを見ました。100Mを人間より速く走る人型ロボット(ヒューマノイド)も現れたそうです。ゴール後、衝突して火を噴いたり転倒するロボットを見て笑う向きもありますが、私は空おそろしくなりました。

 走るようになってつらつら考えたんですが、人間の身体ってよくできています。たとえば、上半身と下半身は腸腰筋でつながっていて、走るさい、両脚が交互に振れたり腰を捩ることで、腸腰筋が伸び縮みし、推進力が得られます。一歩ごと、上体をスライドさせることで支持脚に体重を載せ、地面反力を得る動きもあります。姿勢よく胸を張ることで息をたくさん吸えますし、同時に重心を前に置くこともできるのです。フォアフット着地でアキレス腱の伸張反射を……長くなるので以下略です。

 ロボットはと見ると、筋肉も肺も心臓もないので、走るといっても人間っぽい動きを真似ているだけです。人間の走りとして見ればあまり美しくありません。

「なぜ『人型の』ロボットを作るのか」という議論があります。100M走やマラソンであれば、すでに自動車などが人間を凌駕しているのだし、アームだけが動く工場のロボットだって人間がやるより正確で疲れないはずです。二足歩行はバランスを維持するだけで相当な障壁であるはず。わざわざ人間に近づける意図はなんでしょうか。

 専門家らしき人から「世の中は人間に向けて設計されているので、人間の動きを中心に据えるのだ」と説明された質問者が「納得した」とあるところで語っていました。しかし、なぜ人間社会に合わせなきゃいけないのか、まで説明しなければ完全ではありません。

 たとえば、自動運転のクルマは、フラットな道を人間よりウンと速く走るでしょうが、階段や瓦礫やハシゴに対応できませんし、段差があったり狭い路地や天井が低い場所はお手上げです。そこで、汎用性の高い人型ロボットを研究することになるのでしょう。

 では、どんなシーンで人型ロボットが必要になるのでしょうか。

 災害救助、宇宙開発、戦争です。順不同。やはりなんだか空おそろしい。

『『青鞜』を学ぶ人のために』(2/2)

 米田佐夜子・池田恵美子編『『青鞜』を学ぶ人のために』(世界思想社、1999)でもっとも感心した論稿は、吉川豊子「Ⅱ-3 ヒロインとしての「新しい女」」(72ページ〜)でした。私が近代文学専攻だったからでしょう。

「青鞜」創刊前の1908(明41)年、良妻賢母といった女性の立場に反目した平塚らいてう(明子)は、日本女子大学在学中、妻子ある文学士・森田草平と心中未遂を起こします。新聞紙面を賑わせた塩原事件(「煤煙」事件)です。その体験をもとに森田が書いた小説「煤煙」(私は未読)をらいてうは批判しています。

 森田草平の師匠・夏目漱石『三四郎』の里見美禰子は、森田『煤煙』の真鍋朋子(平塚明=らいてうがモデル)同様、知的で外国文学や美術に造形が深く、強固な「内面」や「自意識」を持ちます。それは、女子教育が普及し、《高等教育をうける女子大生、新しいライフスタイルを志向する知的女性たちが社会的勢力として台頭し、「女学生」「新しい女」と呼ばれ》、《好奇と揶揄の的になっていた》女性たちを反映していたのだと、吉川氏は指摘します。しかし、美禰子は《恋愛の成就も、作家として自己実現を達成するという夢も遂げることなく、「我はわが愆(とが)を知る」と、自身の過去を「懺悔」して、あっけなく因習的な結婚をする、という結末を迎える》。──そうか、そうでした。何十年も読んでなかったけど、足カックンだった気がする。

『三四郎』の1年前に発表された田山花袋『蒲団』で、作家志望の女子大生・横山芳子が「私は堕落女学生です」と告白します。美禰子の「挫折の物語」と重なるのです。さらに、吉川氏は近代文学者・藤森清を援用しつつ《「堕落女学生物語」とは、「教育によって覚醒した「女学生」の「主体」を封じこめようとする男性の書き手の想像力である」》と書いているのが興味深い。「堕落女学生物語」を編み出す男性の書き手の想像力がもっとも恐れ、排除しようとするのは《「男性中心主義的」な異性愛体制を覆しかねない、完遂されてしまう可能性のある女学生の「主体」の力」》だった。──ハイ、ここ重要。テストに出るよ。[*藤森清「蒲団」(『ジェンダーの日本近代文学』翰林書房1998)はいずれ読みます]

『煤煙』(私は未読)では、作者がことさらヒロイン朋子を「精神異常」だと書くそうです。日本では、《1900年代から、生物学的・生理学的な「性欲」という言葉が西洋の「性科学」用語として語られはじめられ、20年代には通俗化のピークをなした、とのこと。「出産」「育児」「貞操/貞淑」という性行動・性意識を「正常」とし、それを逸脱すると「性倒錯」としたらしい。

《「蒲団」(1907年)によって始めて近代文学の中で用いられ、「自然主義」文学の受容によって普及した「性欲」という語》《を女性に関するセクソロジー言説に結びつけたことにおいて、「煤煙」(1907年)は特筆すべき小説だった。それはヒロイン朋子の「性欲」が、「狂人のような力」として、また「性倒錯」者、「精神異常」者のそれとして男性作家森田草平によって語られたという意味において特筆すべき小説なのである。》

 備忘も兼ねて、長めに引用しました。この論文の素晴らしいところは、当時の作品に潜む女性観を探り当てているところです。私は、学問を研究したり本を読むことは頭の中に大きな地図をつくることだと考えているんです。ところが、日本近代文学研究は、「文学ムラ」の地図だけは獣道まで描くのに、他の学問ムラにつながる道がなかったりするのですよ。だから、日本学術会議に近代日本文学者はほとんどいないはずです。

「青鞜」には、堕胎や売春や貞操など、今でも教育ママが聞いたらキーッとなるような論争が繰り広げられました。女性が「性」に関して発言すること自体がタブーであった戦前ならなおさらです。家父長制、男尊女卑、良妻賢母といったものは誰かが押しつけた価値観にほかなりませんが、しらずしらずその価値観を共有した人は、「新しい女」を危険視し、堕落させ、誰かが決めた「正常」に押し戻そうとしました。

「女は可愛くて馬鹿なほうがいい、男より一歩下がっていてほしい」という意識は現代日本にも生きています(たとえば、みんなが大好きな偏差値に照らして、あなたの知り合いに、女のほうが高学歴な夫婦って何組いるでしょうか)。

 女性蔑視の風潮はいまだに身近にあります。「新しい女」を批判した女性論者がいたように、女の敵になる女もいるのです。 徐々にでもいいから、そういう差別心を弱めていかねばなりません。

『『青鞜』を学ぶ人のために』(1/2)

 森鷗外から出発して大正期の女性蔑視に興味を持った私。

 米田佐夜子・池田恵美子編『『青鞜』を学ぶ人のために』(世界思想社、1999)も読んでみました。大学に籍を置く研究者を中心に、テーマごとにいくつか論文が寄せられています。勉強になりました。以下、気になったところをメモします。

 山本博子「『青鞜』における西洋思想の受容」(142ページ〜)

 坪内逍遙は、1910(明43)年、早稲田大学で「近世劇に見えたる新しき女」という講演をし、翌々年、講演録『所謂新イシ女』として出版されます。イプセン『人形の家』『建築師』『ヘッダ・ガブラー』、ズーダーマン『故郷』、バーナード・ショー『ウォーレン夫人の職業』のヒロインを取りあげ、分析。「青鞜」創刊と同じ1911(明治44)年、島村抱月訳・松井須磨子主演による『人形の家』が上演されます。『人形の家』のノラに対する印象は「青鞜」同人によって様々であったとのこと。

 スウェーデンの女性解放運動を権威したエレン・ケイは《男女の絶対平等の不合理性を説き、女性の、妻であり母である特徴を行かす女性運動の必要性を訴え、それまでの女性解放運動とは対立する立場をとるようになった》。《「人間としての権利の主張と、女性としての権利の主張」との間の矛盾をいかに調和すべきかが問題となる。》──らいてうは、こうしたケイの思想に共鳴したといいます。ミル『婦人の隷従』(岩波文庫『女性の解放』)は、婦人の権利を主張するが、恋愛や母性の権利が忘れられていると考えたらしい。(エレン・ケイ『児童の世紀』は読まねば)。

 伊藤野枝は、アメリカのアナーキスト、エマ・ゴールドマンに影響されたそうです。彼女が訳したエマ・ゴールドマンの文章は「青空文庫」でも読めます。アナーキズムへの接近は、大杉栄と親密になる要因ともなりました。 

 池田恵美子「「風俗壊乱」の女たち」(183ページ〜)

 日露戦争後、資本主義により貧富の格差ができ、いわゆる大正デモクラシーが盛んになります。政府は1975(明治8)年に《新聞紙条例と讒謗律を公布して、反政府言論陣を片っ端から投獄》するも、《それにも屈せず、民権運動は高揚し》、1980年年代に入ると《女性たちも立ち上がっていく。宮中での文治御用係を辞した岸田俊子が、各地を遊説して男女同権論の演説会を始めるのは1882年から》だそうです[漢数字を洋数字に改めまし た]。岸田に影響を受けた景山(福田)英子。女戸主として納税しているのに選挙権がないのはおかしいと訴え参政権を得た女性・楠瀬喜多(最近、何かの朝ドラでは島崎和歌子が喜多を演じてたってね)。その流れを受け、1911(明44)年9月から 1916(大5)年2月まで計52冊発行された「青鞜」は3回発禁となっています。当時、雑誌のどの作品が問題視されたかわからされなかったので、おそらく出版界は自主規制を行ったものだと思われます。


 時代時代で女性のあらまほしき姿があり、それを男も女も内面化し、おおむね女性は忍性する立場にありました。戦後、女性に参政権が与えられました。それから80年、女性差別はなくなったでしょうか。ガラスの天井はすべて取り払われたでしょうか。女性の国会議員はなぜ10%ちょいなのか。女性初の総理大臣はなぜトランプに媚びを売るのか……。 

『太平洋ひとりぼっち』

 ──なんだよ、『太平洋ひとりぼっち』、いま文庫の新刊で読めないの? なんだよなんだよ。

 ネット記事のタイトルに「堀江健一さん、88歳で……」(朝日新聞2026/9/8)とあり、「そうか、ついに『太陽はひとりぼっち』の堀江さんも(以下略)」と思いながらクリックすると、目に飛びこんだのは「記者会見」の文字。なんと、88歳でまたまた単独無寄港太平洋横断にチャレンジするという話なのでした。たいへん失礼しました。

『太平洋ひとりぼっち』を読んだのは、20年くらい前でしょうか。自分の力で運命を切り拓く、命がけの冒険のお話です。

 1962年、金を貯め、小型ヨット「MERMAID号」をつくり、準備に準備を重ねて、兵庫県からひっそりとアメリカに向かった23歳の若者・堀江謙一。当時、小型ヨットでの太平洋横断は許されておらず、冒険そのものが違法でした。幾多の苦難を経て、3か月後、サンフランシスコに到着すると、強制出国されるどころか、「コロンブスもパスポートは持ってなかった」といって歓待されます。無分別な挑戦を叩いた日本のメディアも掌を返して英雄視。のちに日本政府は観光目的の海外渡航を認めることになりした。

 著書『太平洋ひとりぼっち』は太平洋横断した年に刊行されているんですね。

 市川崑監督、和田夏十脚本、石原裕次郎主演で映画化されたのは翌63年。市川監督は失敗作だといいますが、私はいい映画だと思いますよ。父母を演じた森雅之、田中絹代もよかったし、浅岡ルリ子がとても魅力的に撮られています。東京オリンピックの少し前のできごとです。

張本勲死去

 私は1965年(昭40)広島県生まれ。マツダ本社に通うために造成された新興住宅地で育ったため、小学校の同級生の半分以上がマツダ社員の子どもだったと記憶します。古くからそこに住んでいた家は学区に少なく、原武史のいう「団地」ほどではないにせよ、均質的な人たちのなかで暮らしていたのでした。中学から市内の私立学校に通いまして、そこにはカネ持ちや有名なヤクザの子どもなどもいましたが、校風もあり、上下関係を意識することはなかったのです。今も、フラットな人間関係を好み、学校や職場の上下関係を嫌うのは、そのためでしょう。

 広島は被差別部落や朝鮮人差別の問題がありました。たとえば、『はだしのゲン』はそれらの問題を描いていますが、別世界の話のように感じていました。

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 元プロ野球選手・張本勲が亡くなりました。1940年(昭5)広島県生まれ。

 1975年(昭50)、長嶋茂雄監督1年目に最下位になったジャイアンツはシーズンオフに張本を獲得。パ・リーグから安打製造機がやってくると話題になりました。当時、パ・リーグの試合はテレビで放映されていなかったので、ワクワクしましたが、バットを寝かせる打ち方が私好みではなく、ちょっとガッカリしちゃったなあ。4月には、広島で民族差別的なヤジを受け、また判定のことでチーム全体がカープファンと大きなトラブルに発展しますが、どうしたことか私は記憶していません。

 それはともかく、翌年ジャイアンツが優勝。張本は打率.355(一毛差で中日・矢沢に首位打者を譲る)を記録しています。

 引退後、私は張本が嫌いだったんです。威張られることも威張ることも嫌いですから。関口弘の番組「サンデーモーニング」では舌禍事件も多かったようですが、私はあの番組を視てもスポーツコーナーだけは避けていました。しかし徐々に、朝鮮人として被爆者として差別され、ああいうふうに烈しく生きるほかなかった人だと理解するようになりました。

 Wikipediaに生い立ちが詳しく書かれています(100%正確かどうかは知りません)が、私が張本の人生をざっと読んだのは東京新聞「この道」でした。浪商3年生のときに甲子園出場を決めていたものの張本は出られなかった話や、力道山に向かって在日コリアンであることを明らかにしてくださいと言って殴られた話など、興味深かった。晩年は、被爆体験や平和について語ることも多かったようです。

 差別と、それに屈しない肉体と精神。金田正一、王貞治、張本勲といった野球選手にそれを感じます。張本は右手のケガで左投げ左打ちになったそうですが、三人とも左利きですね。

中島国彦『森鷗外』。林太郎の遺書と墓

 近代文学者・中島国彦による森鷗外の入門書『森鷗外 学芸の散歩者』は、2022年、鷗外没後百年にあたって刊行されたらしい。鷗外の生涯と作品がざっと見渡せます。作品ひとつひとつの解釈は私とは少し違いますが、それはある意味あたりまえの話です。

 数ヶ月、鷗外のことばかり読んだり考えたりしていましたが、ひとまずこれを区切りとします。この本にも書かれている鷗外の遺書について触れておきましょう。

 1922(大正11)年7月6日、鷗外は友人・賀古鶴所(かこ・つるど)を呼び、遺書を口述筆記します。

余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ一切秘密無ク交際シタル友ハ賀古鶴所君ナリコヽニ死ニ臨ンテ賀古君ノ一筆ヲ煩ハス
死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ奈何(いか)ナル官憲威力ト雖(いえども)此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス
余ハ石見人 森 林太郎トシテ死セント欲ス宮内省陸軍皆縁故アレドモ 生死別ルヽ瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス森林太郎トシテ死セントス墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可(べか)ラス書ハ中村不折ニ依託シ宮内省陸軍ノ栄典ハ絶対ニ取リヤメヲ請フ手続ハソレゾレアルベシ
コレ唯一ノ友人ニ云ヒ殘スモノニシテ何人ノ容喙ヲモ許サス

大正十一年七月六日   森林太郎言(拇印)
賀古鶴所書____

 中島氏は《「石見人森林太郎」として死を迎えたいという心情は、若くして故郷津和野を出て、生涯戻らなかった鷗外が、いかに故郷を自己の心中に持ちつづけたかをうかがわせ、多くの人はそれを深い感慨を持って受け止める。鷗外森林太郎の心情は、周囲の人間が何を言っても、そのものとして絶対だ。わたくしたちは、じかにその言葉に向き合い、自分をふり返る。》と書いています。

「二足の草鞋」とは、本来、相矛盾する職業(泥棒と警察など)を掛け持ちすることです。芸術家であると同時に高級官僚であった鷗外は、まさに二足の草鞋を履いていました。1909年、鷗外作『ヰタ・セクスアリス』が風紀壊乱したとして掲載誌「スバル」が発禁になったとき、「石本次官新六[陸軍省次官・石本新六]予を戒飭す」と日記に記しています。意のままにものを書けない不自由さを味わったに違いありません。遺書に、「死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ」「奈何(いか)ナル官憲威力ト雖(いえども)此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス」と書いた鷗外は、死とともに二重拘束(ダブルバインド)の鎖を断ち切ったのではないでしょうか。

 下の写真は、8月9日に撮影した三鷹・禅林寺の森林太郎の墓(中央)です。近くに太宰の墓もある関係か、三鷹市立図書館には鷗外・太宰の資料が多かった。ここでしか読めない資料をコピーしたついでに、1km ほど離れた禅林寺に行きました。暑い日でした。向かって左が妻・志げ。右隣が父・静男。その右は、息子・不律と林太郎の弟・篤次郎、篤次郎の息子・兌(とおる)の墓です。

森鷗外の史伝『渋江抽斎』

 40年ぶりに「渋江抽斎」(「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」1916/1/13〜5/20連載)を読み直しました。もしかすると、前回は通読できていないかもしれません。今回も、目がツーッと文字の上をすべるだけになってしまい、「いかんいかん、身を入れて読まねば」と視線を戻すことが何度あったことやら。

 大正期に入って歴史小説を書いた森鷗外は、本作を皮切りに史伝を書きはじめます。伝記ですね。「渋江抽斎」「伊沢蘭軒」「北條霞亭」が史伝三部作といわれるらしい。とくに有名な人を書いたわけでもなく、鷗外の史伝は評価できんという人たちもたくさんいる一方、傑作とする人もあります。ちょっと気になることがあり通読したのです。いやいやいやいやいやいや……しんどかった! もう読まないかな。

 渋江抽斎は弘前藩の医者で、江戸詰めです。鷗外は、武鑑の収集をきっかけに学才ゆたかな抽斎を知り、子孫らを探して史伝を物します。抽斎の出自から死までを、史実に基づいて書くのですが、注釈に書かれるような周辺の人たちの情報も本文にことこまかく記述されます。ある事情があって抽斎は隠居を決めますが、50代前半で死去。これが小説の半分くらいです。あとは、幕末から明治にかけての、妻子の暮らしぶりが延々と書かれるのでした。弘前藩は佐幕派ですから苦労が多かったようです。

「渋江抽斎」を読んだのは、史伝第2作「伊沢蘭軒」(「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」1916/6/25〜1917/9/5連載)にこんな文章があると知ったからでした。

これを読むものは、[伊沢伯軒の妻]たかの性行中より、彷彿として所謂新しき女の面影を認むるであらう。後に抽斎に嫁した山内氏五百も亦同じである。此二人は皆自ら夫を択んだ女である。わたくしは所謂新しき女は明治大正に至つて始て出でたのではなく、昔より有つたと謂(おも)ふ。そしてわたくしの用ゐる此称(となへ)には貶斥(へんせき)の意は含まれてをらぬのである。

 ほかの投稿で書いたように、鷗外はフェミニストですから自発的に生きた女性に興味を示したはずです。抽斎のことを書いたと見えて、じつは妻・五百や娘・陸の生き方に魅力を感じていたのかもしれません。ちなみに、「新しき女」という言葉が流行するきっかけになった雑誌「青鞜」は、「伊沢蘭軒」連載開始時点で無期休刊(事実上の廃刊)になっています。

 また、「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」という遺言どおり鷗外は石見津和野藩の人、つまり官軍側でした。賊軍(奥羽越列藩同盟)の人物の伝記を書いたことも興味深い。たとえば、東京出身の漱石は、江戸っ子「おれ」と会津っぽ・山嵐が結託して戦う「坊っちゃん」を書いています(ただし、懲らしめられる松山藩は賊軍のようですが)。

 では、「伊沢蘭軒」も通読します。こいつもしんどそうなり!(追記=ざっと読みました。井伏鱒二=朽木三郎のイタズラも。ひどいね)