自民党総裁選と候補者の「地元」

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現代日本は官軍支配(とくに長州支配)が続いていると何度か書いています。江戸時代が徳川家を中心とした世襲制の封建主義であるならば、明治以降は薩長閥を中心とした世襲制封建主義です。日本は民主主義というけど、現実的にはそうなっていません。

Wikipediaの賞罰的県名説を見ればわかるように、官軍にくみした藩というのはわかりやすくて、だいたい県名と県庁所在地が一致しています。福島県の県庁所在地が福島市なのは、会津藩はけしからんから、県名のみならず県庁所在地からも会津を外せ、という説(噂話?)を読みました。明治政府がそんなことをしたという確たる史料はありませんけど、血液性格診断などより当たっていそうなので遊び半分そのまま使っているんです。

そのことを初めて書いた宮武外骨『府藩県制史』は国会図書館デジタルで読めます。宮武は、戊辰戦争など官軍サイドから忠勤藩、朝敵藩、曖昧藩などに分類し、朝敵藩、曖昧藩は廃藩置県のときに藩名を消されたのだと書いているのです。半藤一利さんもこの説を引用していました。

ちなみに、菅義偉首相の出身地は秋田藩(久保田藩)は官軍です。東北はみな賊軍ではないのです。《後の秋田藩たる久保田藩は一時奥羽列藩同盟の朝敵組に加わったが、早く脱退して朝敵会津藩仙台藩等討伐の勲功があった》と宮武外骨。

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さて。自民総裁選では安倍晋三前首相のカーボンコピーみたいな人たちばかりが出てくるのでクラクラしますが、名前の挙がっている人たちの出身地を見てみましょう。

岸田文雄】広島藩=官軍。
ご当人は渋谷生まれだそうですが、ルーツは広島市。世襲議員です。老中・阿部正弘のいたお隣り福山藩は最初は長州と戦いましたが、広島藩はおおむね薩長と手を組んだとか。戊辰戦争では東北にも派兵しました。

河野太郎】宮武が朝敵藩と書く小田原藩。廃藩置県で小田原県となるも、ほどなく足柄県→神奈川県となりました。
小田原藩は勤皇寄りでしたが、無血開城した江戸城から脱走した遊撃隊(人見勝太郎、伊庭八郎ら)が徹底抗戦を訴え、小田原藩も同調。官軍から追討軍を送られたことを知った小田原藩はあわてて官軍への恭順をあらわし、家老が切腹。
──河野氏も自民のなかで反自民っぽく振る舞っていたのに、閣僚となるや180度豹変しました。歴史は体をあらわすのか?

高市早苗】彼女は郡山藩?
奈徳川直轄地が多かったか良県の事情はわかりづらいし、賞罰的県名説では説明できない県のひとつです。なにかで高市氏は大和郡山出身とあったので郡山藩でしょうか。だとすると戊辰戦争では新政府軍とともに戦っていますが、あまり目立たない藩ということで判断保留。

石破茂】鳥取藩。一見、官軍っぽいけど……。
幕末、尊皇攘夷派が優勢でしたが、禁門の変(蛤御門の変)で反長州にまわって藩がゴタゴタし、尊皇・佐幕どっちつかずで明治を迎えます。鳥羽・伏見以降は薩長とともに戦い、鳥取藩は晴れて鳥取県になりました……が、なんと明治9年に島根県(松江藩は朝敵=賊軍で島根県と改称されました)に吸収されます。まさかの賊軍扱い? 旧鳥取県では不平士族たちが暴れるなど社会不安を引き起こし、政府は5年後に鳥取県を再置されました。
──旗幟鮮明さに欠けた鳥取県。総裁選に出るのか出ないのかさえ明言せず、はっきり反安倍勢力ともならない石破氏の態度にそっくりだと思いませんか。

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牽強附会の言葉遊びと思ってください。安倍・麻生両氏がバックで目を光らせている自民総裁なんて誰がやってもどのみち同じです。コロナ対策も今のまま、オリンピック・パラリンピックの検証もせず、モリカケサクラも、入管施設のウィシュマさんのことも、その他挙げたらキリがない自民政治家の醜聞もすべてそのままです。

賊軍の昭和史

パラリンピック雑感

企業のCMか政府広報か忘れましたが、2年ほど前のオリンピック・パラリンピックのコマーシャルでこんなシーンがありました。1964年風ファッションで男女2人が登場し、「ぼくと東京オリンピック・パラリンピックを観に行ってくれませんか」と男が女を誘うんです。

1965年生まれの私ですが、これは断言できます。当時、パラリンピックなんて一般的ではなく、オリンピックと並べて言われる大会ではなかったはずです。

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私は「より速く、より高く、より強く」のオリンピックはもう要らないと考えています。あのスローガンは資本主義と同じです。収益を上げろ、成長しろ、国力を上げろ……だなんて。もうオリンピックにはプロばかりなんだから、競技ごとに国際大会を開けばいい。

しかしパラリンピック反対とはいいません。脊椎を損傷した患者のリハビリテーションと社会復帰をすすめ、ストーク・マンデビルという脊椎損傷者の大会を開いたグットマン博士に学び、1964年に東京パラリンピック開催に漕ぎつけた大分の医師・中村裕も立派でした。敬意を払っています。

中村医師がリハビリを取り入れる前、日本では、不幸にして脊椎を損傷した人はスポーツや社会復帰など考えられず、ずっと寝ているのが運命だと信じられていたようです。

脊椎損傷に限らず、障碍者(私はこの表記を使います)は外に出るものではないというのは、1970年代以降も社会の空気として共有されていました。1979年11月24日に放映させたドラマ、山田太一脚本・鶴田浩二主演『男たちの旅路』(NHK)「車輪の一歩」や、1981年公開『典子は、今』は、障碍者が外に出ることを問題提起したものでした。『典子は、今』を見た同級生が「人を頼って生きていくなんてわがままだ」と言って私を驚かせました。

今ではバリアフリーは当たり前の目標です。しかしつい昨日まで、ちょっとした段差が健常者と車いす使用者を隔てる大きな壁でした。日本では、その壁を徐々に低くしていくきっかけが、1964東京パラリンピックだったといいます。

振り返ってみれば、これが最初の一歩だった。障害のある人々が社会と隔絶して生きていけなかった昭和の半ば。この東京パラリンピックも、のちの「パラリンピック」の華やかなイメージとは遠くかけ離れた、地味で小さな大会だった。一般の注目を浴びることはほとんどなかった。その中身も、二一世紀の目から見れば、すべての面で立ちおくれていたと言うしかない。が、あらためて振り返れば、これこそがさまざまな面での原点だったように思える。

──佐藤次郎『1964年の東京パラリンピック』(太字部分は原文では傍点)

中村医師の尽力で、1964年11月8日、代々木の織田フィールドで開会式が行われました。公式には、東京大会はパラリンピックの第2回大会となるらしい。参加者は21ヶ国378人。開会式には皇太子・美智子妃が臨席、参加者の家族や知人、関係者など4000人が仮設スタンドを埋め尽くしたといいます。

狂騒を嫌い1964東京オリンピック期間中に東京を離れた文学者・中野好夫は、パラリンピックを見にいっています。

背後にいたどこかの取材記者の一人が、ほう、運動会だな、と思わずつぶやいた。スポーツ大会といわなければいけないのかもしれぬが、ぼくは明るく、楽しい運動会であってなにが悪いのだと、むしろ言いたい。

夜になると、海外勢は車いすでショッピングに出かけたり、パーティで交流を深めます。日本人はほとんどいなかったようです・海外の障碍者の明るく社交的な姿は日本選手やホストとなった若い日本人スタッフに影響を与えたようです。

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現在、パラリンピックは巨大な大会になり、選手の体力が向上、車いすはじめ道具もすごく進化しています。なかにはプロ選手もいる。

選手ごとにハンデが違い、スポーツに必須といわれるフェアネスがどこまで確保されているかわかりません。たとえば、義足をつけるのが利き足かそうでないかで条件が変わります。

でも──と、最近私は思うようになりました──条件がどうこう言うのも勝ち・負けに拘泥するからではないか。国も障碍の度合いも関係なく、みんなで楽しめばいい。たとえば、パラリンピックとはまた別に、健常者も参加できるボールゴールやボッチャやブラインドサッカーやシッティングバレーの運動会を作れば、多様性社会実現に寄与するはずです。結果、障碍者が勝ったりすることも多々あるんじゃないか。

前述の中野好夫はアマチュアとはいいながら1年間スポーツやっている選手を集めたオリンピックを「プロリンピック」と批判し、のんびり行われたパラリンピックを賞賛しています。今後、パラリンピックが商業的に成功して「プロリンピック」「パラ利権ピック」みたいにならないでもらいたいと願います。「楽しい運動会」の雰囲気を残してくれますように。

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──とはいえやはり、今年のパラリンピックはこの時期に開催すべきではなかったと思います。9/8時点で、大会関係者のコロナ陽性者は累計874人とのこと。みなさんの恢復を祈っております。

教養について改めて考える

年収100億か。メンタリストという職業は儲かるらしい。(→「坂上忍ショック DaiGoの驚がく月収にペン投げ出す『やってらんねえな』」デイリー

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大学=エリート層が大学=マス層に変身したのは1960年代後半だと竹内洋は書いています。そのころ大学進学率が15%を越え、卒業しても専門を活かした仕事に就くことが減りました。普通のサラリーマンになる時代が到来したのです。

ハナ肇とクレイジーキャッツ『遺憾に存じます』は1965年のヒット曲。歌詞を見ると、青島幸男のアンテナがどれだけ敏感だったかがわかります。

学生時代は優等生/万能選手で人気者/こんな天才今迄見た事ない/とかなんとか云われたもんだが/今じゃしがねェサラリーマン/コラ又どう云う訳だ/世の中間違っとるよ/誠に遺憾に存じます

ちなみに、官僚用語「遺憾に存じます」は1966年あたりから目立ち始めたと何かの本で読みましたから、その点でも時代を先取りしていたわけです。

70年代安保と相前後して、東京大学にいた教養エリートの権化・丸山眞男が糾弾され、庶民の出身で東京工業大学卒の吉本隆明がスターとなったそうです。ゴールがしがねえサラリーマンなら、専門知を身につけてもしかたない。

さらに1985年──このあたりから私も体感・記憶しているのですが──、埴谷雄高と論争していた吉本隆明を、ビートたけしが茶化したことが、日本の教養のさらなる転機になったと竹内は書いていました。

サブカルチャーがもてはやされ始めた時代です。そのころから「頭の回転がはやい」と言われていた人たちを「頭がいい」と言いはじめたことに私は違和感を覚えました。1989年の東大生のアンケートでは「頭がいいと思う人」の2位がビートたけしだったそうです(1位は夏目漱石)。吉本隆明よりも、ビートたけしが時代を象徴する「頭がいい人」になりました。

大学は学問の府ではなく巨大レジャーランドと化します。大学生活4年間はモラトリアムだと言われていました。世はバブル。シースポ同好会(シーズンスポーツ同好会)に入り、バイトしてカネ貯めて男女入り乱れてコンパを楽しもう。スキーてん、こく、へ〜。

そんな時代ですもの、「難問ですね、少し考えさせてください」なんて哲学者はもはや必要ありません。テレビや深夜ラジオを点ければ、マシンガンのように言葉を繰り出す頭のいい人がたくさん出てくるのです。沈思黙考よりも瞬発力です。

加えて、1980年代の中曽根政権から日本は新自由主義へと舵を切ります。国民のインフラ・国鉄を分割民営化したことで国鉄の労働組合は弱体化し、国労を支持母体としていた日本社会党は弱くなっていきました。

新自由主義では努力(自分への投資)と報酬はガッチリ結びつくと考えられています。格差が拡大し、セーフティネットはどんどん縮小されてます。「自分を磨いてたくさん稼いだ奴が勝ち。負け組は努力が足りなかったのだ」という自己責任論が蔓延しました。これは「頑張れる者は必ず報われる」という日本の通俗道徳といともたやすく結びつきます(実際は、頑張っても運悪く転落する人だっているのに)。

かくして人的資本(ヒューマン・キャピタル)なんて言葉がハバをきかせはじめます。「自分に投資する」とか「資格を取る」とか「ダブルスクール」(大学のほかに専門学校に通う)なんてことを誰彼なく言いはじめ、自己啓発ブームが起きました。

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今や大学は全入時代。偏差値の高い大学に入学する(=資格を得る)ことが一番大事で、次に大切なのは、とにかく卒業することです。大学の成績なんて社会に出て問われることはありません。大学を卒業されたみなさん、「卒論なに書いた?」と質問されたこと、何度ありますか。

その場でガーガーしゃべり続ける人がもてはやされる風潮は続いています。矛盾だらけの橋下徹もまだテレビで重宝されているらしい。オリンピック開会式を見よ、サブカルはメインカルチャーを凌駕しました。テレビのクイズ番組は教養を極限までそぎ落とし、一時期「おバカブーム」というのが流行りました。今では東大生がテレビタレントになってクイズを解いているとか。

ネオリベラリズムも続いています。いつからか、勝ち組/負け組ということが言われ始めました。議論の場でも「マウントを取る」とか「論破する」とか言い、勝ち負けに拘泥する。対立する意見の持ち主がじっくり話し合い、妥協点を求める民主主義的なプロセスは無きがごとしです。

おそらく、稼いだ人は特別な努力をしていると捉えられています。100億稼ぐ(?)メンタリスト氏は、テレビやネットや本で自己啓発と金もうけの秘訣を開陳し、負け組ホームレスを罵りました。生まれるべくして生まれた現代の生き神様です。

さて……私なんぞ、いまだに教養をありがたがるポンコツで、「難問ですね、少し考えさせてください」の人を敬ってしまうんです。金持ちより、資本主義の外に暮らすホームレスに興味がある。ブックオフのビジネス本や自己啓発本コーナーの棚の大きさに驚くたび、自分は時代遅れだと感じます。なにしろここ数ヶ月、丸山眞男ばかり読んでいたんだし。

『土偶を読む』で日本の食の歴史を学ぶ

なにやら縄文ブームだそうです。竹倉史人『土偶を読む 130年間解かれなかった縄文神話の謎』(晶文社)という本が書店の平台に積まれているのは知っていましたが、これもブームの一環かな、くらいにしか感じていなかったのです。

縄文時代って保守の人が日本スゴイに利用することもありますし、流行り物に背を向ける性分でもあり、私は縄文時代ブームとは距離を置いています。

私はノマド的な狩猟採集社会が好きなんです。縄文時代は狩猟採集社会と教わりましたが、いまでは中期にはクリなどの栽培をしていたことがわかっています。竪穴式住居はもちろん、時代の文化を代表する土偶も縄文土器も定住以降に作られたものです(移動するのに、ああいうものを持ち歩けませんから)。後期には稲作も始まっています。それでも社会は首長制くらいにとどまっていたのではないでしょうか。今よりは暮らしやすかったに違いない。税金なんてないしね。

さて、土偶です。

土偶といったら、女性をかたどって子孫繁栄を祈ったとよく聞きましたが、痩せている土偶があるのはなぜだろう? 宇宙人だという人がいたけど、宇宙人多すぎない? 上を向いて月から精子のもとを溜めていると書いた本を読みましたが、正面向いてる土偶も多いし、大昔の人は出産のメカニズムをそもそも知っていたんだろうか……。

先史時代の人びとはブリコラージュをする(ひとつのモノを複数の用途に使うこと。たとえば、縄文土器のあの姿。ものを煮るだけに使われたはずがない)とレヴィ=ストロースが書いています。土偶だって祭祀からままごと遊びまで使われたかもしれず、一義的に決められないのではないかと感じていました。

でもね、ふと『土偶を読む』の口絵を見てみたら、これが画期的な本であることがわかってしまったのです。口絵をお見せするわけにはいかないので、竹倉土偶研究所のトップページの画像をお借りして……。

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土偶の顔は、祭祀用のフィギュアで、土地土地の食べ物を模していると、著者は主張するのです。さっそく一読……なるほど、おもしろい。推理小説のように理路整然と土偶の謎を解いていきます。日本の食の歴史まで学びました。

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ただ、ここに出てこないタイプの土偶もありますよね。実物の土偶と比較したわけでもないので全面的に信じたわけではありません。先史時代の研究なんて状況証拠の推理でしかありません。あらたな何かが発見される可能性もあります。

これを機に議論が巻き起こればいいのにと感じます。著者は人類学者を名乗っていて、この新説を受け入れないであろう考古学会を批判・挑発しています。本書も専門書ではありません(カバーの表4[裏表紙]に書かれた分類コード[Cから始まる数字]は、C0021で、これは一般書[0]の単行本[0]で日本の歴史[21]についての本であることを表します。専門書であれば、C3021です)。

本は重版をかさねていますが、おそらく学会は無視でしょう。

『スエロは洞窟で暮らすことにした』


メンタリストの差別発言

どうやらテレビでは有名人らしいメンタリスト──メンタリストってなに? 最初はメダリストの間違いだと思ってました──なる人物の差別発言が話題になりました。メンタリストって職業は稼げるらしい。資本主義の強者として次のような身勝手な論理をふりかざします。

《「ホームレスの命はどうでもいい」などと、路上生活者や生活保護受給者を差別する発言をした。》《「自分にとって必要のない命は僕にとって軽いんで。だからホームレスの命はどうでもいい。いない方が良くない? 邪魔だしさ、プラスになんないしさ、臭いしさ、治安悪くなるしさ。もともと人間は自分たちの群れにそぐわない、群れ全体の利益にそぐわない人間を処刑して生きている。犯罪者を殺すのだって同じ》なんだそうです。(→毎日新聞

人の命に軽重があるだなんて……。人類の大前提「人権」を否定してしまったメンタリスト氏。先人たちが何百年も考え苦労して積み上げた大切な人間の権利を「論破」したつもりだったのかもしれませんけど、結果は見えています。いろいろザツです。日本の教育が失敗したのでしょう。

《もともと人間は自分たちの群れにそぐわない、群れ全体の利益にそぐわない人間を処刑して生きている》ってなんですか?

原初の社会を続けているといわれる狩猟採集民は処刑なんてしませんよ。リーダーも階層も差別もない。移動しなきゃならないから財産もない。もしも「群れ全体の利益にそぐわない人間を処刑」する社会があれば、「やだよ」ってみんなちりぢりになってしまいます。

20世紀の人類学が明らかにしたことを短く書けば次のとおりです。

もともと人間は全員ホームレス。集団の全員と平等分配しながら生きていた

近代国家は勝ち組が全部持っていこうとするので、権力者は高所得者からたくさん税金をとって再配分すべきなのです。ところが、残念なことに今は新自由主義。政府は再配分をせず、金持ちがより儲け、庶民はケツの毛まで抜かれます。メンタリストはそれを良しとしています。

私はといえば、そんな行きすぎた資本主義に抵抗すべく、資本主義の周縁もしくは外の世界で生きる人びとを参考に、脱成長・反資本主義の生き方を方法を模索しているところです。ホームレスは当然、参考にすべき人びとです。

スエロは洞窟で暮らすことにした

マーク・サンディーン『スエロは洞窟で暮らすことにした』(紀伊國屋書店)を読みました。ダニエル・スエロという、お金を使わずにユタ州で暮らす人物の半生記です(現在は年老いた母親と同居し、毎月必要なお金を少し使っているらしい)。少し前に紹介したマーク・ボイル『ぼくはお金を使わずに生きることにした』(紀伊國屋書店)でスエロを知りました(2冊とも、訳者は吉田奈緒子さんという方です)。

無銭生活をするにいたった劇的な道程についてはぜひ本を読んでください。スエロは決して偏屈な男ではありません。他人と親しく交流し、ボランティアやバイトもいます。食べるものは、草や果物、轢かれた動物。フリーガン(スーパーの廃棄食品を漁る社会運動)もしていますし、仲間からご馳走になることもあります。

カネを使っていたころは、スエロも年金や保険、住民税、老後の不安などを抱えていたと言います。紙幣やコインは紙と鉱物であり、その価値は幻想にすぎないのに。

金銭への隷属から逃れるには、誰かが最初の一歩を踏み出す必要がある」と決意したのは西暦2000年のこと。最後に持っていた30ドルを電話ボックスに置いて背を向けました。それから彼は、直線的な未来の時間感覚から解放されて「いま」の連続を生き、シンプルに衣食住のことだけを考えているといいます。

人間と違い、自然界にバーターは存在しないのです。主は《「捕食動物も獲物も報復の意識など持ちあわせず、やり返したりしない。返済や負債は宇宙の領域に属することがらであって、ここの生物がどうこうする問題ではない」》と言いました。それなのに、《われわれ人間は、返済と負債とを神々から盗み出した。私たちはもはや無償で与えたり無償で受けとったりできない》とスエロは嘆きます。

資本主義はモノだけでなく、公共物やあらゆるサービスにまで値札をつけました。あなたがレストランを3時間手伝う代わりにランチを得たとしましょう。そこに金銭が介在すれば、時給3時間分とランチの金額を交互に眺めて、「店とあなたのどちらが得をしたか」を算出できます。得をしたほうは「いつか◎◎円分を返さなきゃ」と精神的負担を覚えるかもしれません。しかし、スエロの暮らしにはカネがありませんから、そんな心理とは無縁です。《返済や負債は宇宙の領域に属する》のです。

彼の行動は脱炭素社会、貨幣制度への持続的抵抗などにも通じますが、もっとも重要なのは「自由への地図を描いたこと」だと著者は書いていました。リーマンショックでさえ彼の生活にほとんど影響しません。

「お金が過去のものとなる時代がいつか来る」とスエロは言う。「(略)どこの社会にも、きわめて資本主義的なこの国にさえ、共同生活はすでに存在している。“分かちあい” という名でね。幼稚園で習ったことさ。それにみがきをかけて、われわれの利己的な社会体制を自然死させなくてはいけない」

キリスト教原理主義者だったスエロは自分がゲイであることに気づき、苦しんだ過去があります。LGBTには生産性がないと書いた国会議員や、ホームレスの命は軽いと言ったメンタリストからすれば、生産性のない軽い命かもしれません。でもね、差別主義者がなんと言おうと、現代人に一生つきまとう損得勘定を捨てたスエロに私はあこがれるのです。

 とうとう彼は理解した。「どこにいるかは問題でない。どこにいようと、そこが私の家だ

なんと、彼はホームフルなのでした。

東京都は100人に2人が感染──TOKYO2962

季節性かもしれないけれど

ラジオで、コロナウイルスは春、夏、冬の季節性ウイルスだと上昌広さんがおっしゃっていました。たしかに、昨年夏、東京都、全国ともに、8月10日に実効再生産数が1を切り、10月いっぱいは感染は低めに抑えられていたように見えます。寒くなるにつれて第3波がやってきました。

波の浮き沈みが季節に左右されるものだとしても、人の接触を減らしたり、ワクチン接種や特効薬の開発が進めばひとつひとつの波の高さを小さくできるはずです。

東京都では100人に2人が陽性に

今年も、東京都では実効再生産数が1に近づきつつありますが、なかなかピークアウトしません。16日の新規陽性者は2962人で、月曜日の過去最多とのこと。オリンピック期間につくった4連休や3連休やお盆に都市部から地方に人が動いていれば、全国レベルでピークアウトするまでにもう少し字間がかかるかもしれません。

さて、みんな気づいていないようですが、東京都のコロナ陽性患者は累計28万2272人となりました。東京都の人口1404万9146人で割ると、2.009%。すなわち100人にちょうど2人が陽性になった計算です。広くPCR検査をしてないため、実際は2〜3倍の累計感染者がいるとも言われます。

100人に2人ですから、去年のいまごろは新型コロナに感染した人は「知り合いの知り合い」くらいだったのに、何人もの「知り合い」が陽性になっています。ここ数ヶ月はとても多くなり、私も何度も会っている友人の母親はワクチン接種2回をとっくに終えているのに感染が判明したとのこと。(ワクチンのおかげか、いまのところ軽症でおさまっているそうです)

次の選挙までは自助?

もはや菅政権や小池百合子都知事はワクチン頼みのようで、病床や検査を増やそうともしません。うちにいろと言いますが、はたして保障はあるんでしょうか?

都のモニタリング会議は「制御不能。自分の身は自分で守る段階」(→東京新聞)と言い、豪雨とのダブルパンチに小池都知事は「もうこれ、複合災害ですよね」(→東京新聞)と口走ります。複合災害であることはその通りですけど、天災に限らず、菅政権、小池都知事、バッハ会長らによる人災もふくまれます。

コロナ対応以外にも入管問題やオリンピック・パラリンピックのことなど、たくさんの問題があります。憲法53条には、「内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない」とあるのですが、与党は野党の要求に応じて国会を開きません。憲法を守らない理由などあるはずがないのに。

みなさん、自己責任らしい。次の選挙まで、くれぐれもお気をつけください。

とりあえず、一息。「ふう〜」

オリンピック閉会式も終わった模様です。長いあいだ水のなかに潜っていた気分です。とりあえず、一息つかせてください。「ふう〜」

選手やスタッフのみなさん、無観客およびコロナ感染のストレスのなか、たいへんお疲れさまでした。私は生中継はほとんど見ず、大好きな陸上もハイライトを見た程度ですが、テレビを見ない代わりにオリンピックやスポーツについてずいぶん考えました。

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いや、実はここ数年、モヤモヤと考えていたんです。私は《狩猟採集社会に勝ち負けを争う競技はない》こと、《町内の小学生の相撲大会や、河原でやっている草野球でさえ楽しめる》こと、《走るのを見るより、自分で走るほうが楽しい》ことなどと、オリンピック観戦で興奮することとどう結びつくのか、よくわからないんです。

私は「日本人がメダルを獲った!」と喜ぶタイプではない──そうじゃなきゃ、日本人がメダリストになりにくい陸上ファンなんてやってられません──から、ほかの人と違うのかな。

狩猟採集民の場合、狩猟やランニングは生活上不可欠なものです。スポーツと呼べるものはダンスくらいでしょうか。L・ヴァン・デル・ポストが撮った20世紀半ばのブッシュマンの映像には、数人の女性が輪になってスイカを投げて遊んでいるシーンがあります。同じ遊びが『世界ウルルン滞在記』#49「アフリカのブッシュマンに…加藤晴彦が出会った」(1996.4.14放映)に出てきて、私を感動させました。

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エルマン・R・サーヴィスは未開社会の変化を次のように整理しています。
  1. バンド=移動型狩猟採集社会
  2. 部族(トライブ)=バンドより大きな集団で、定住し、園耕や牧畜をする
  3. 首長制社=人口がより稠密になり高度に社会化される。余剰は再配分される
  4. 原始国家=領土観念や政治的な力を集中した政治機関を持つ大規模社会

戦争とスポーツができるのは首長制社会です。20世紀初頭のタヒチには、サッカー、ホッケー、ボクシング、レスリング、競歩、競泳のような競技があり、サーヴィスはそれらを「精神的戦争」と呼んでいます。ほとんどすべての競技が、攻撃的に行われ、なかには危険きわまりないものもいくつかあったそうです。近代国家は、それらの競技にルールをつくり、スポーツとして整備しました。オリンピックやワールドカップは国家間の代理戦争かどうかが議論になりますが、スポーツの出自が「精神的戦争」であるならば、代理戦争であることは否定できないのではないでしょうか。

狩猟採集社会には勝ち負けはありません。河原でやっている還暦野球やふらりと球場に入ってみる弱小チーム同士の高校野球予選を見るときも勝ち負けに関係なく楽しめます。

オリンピックでメダル争いをするのはなんのためでしょうか? オリンピック憲章には、《オリンピック競技大会は、 個人種目または団体種目での選手間の競争であり、 国家間の競争ではない》と明記してありますが、新聞やテレビで国ごとのメダルの数が比べられます。表彰式には金メダルの選手が所属する国旗が揚がり国家が流れます。これじゃほんとに代理戦争です。

待てよ、みんな頑張ったんだから勝ち負けを強調しなくてもいいんじゃないか?

稲垣正浩・今福龍太・西谷修の鼎談『近代スポーツのミッションは終わったか』(平凡社)という本は、私が作られた歴史と考えているナンバ走法から始まっているので途中で投げ出していたんですが、このさい通読してみました。たとえば、次の発言──

今福 (略)僕はスポーツにおいて「勝つ」ということを絶対化する原理をずっと問いつづけてきまして、この絶対視されている勝利至上主義をどうやって相対化するか、近代スポーツを論ずるときにこれを相対化することは不可能なのか、ここをぎりぎりまで考えつづけてきたわけです。(略)一見スマートなふりをした勝利至上主義によってつくられるスポーツの暴力性というものがあって、むしろ、僕らにとって本当に考えねばならないのはそちらの方の暴力であって、競技スポーツが勝利を標榜することでひたすら構築してきた機構というか、暴力装置というものが、どういうものであるのか、これが問われなくてはいけないのではないか。(略)

そう。私が問いたいことも同じです。

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オリンピックなどのスポーツイベントは、誰かが金もうけするためのもの。ジュールズ・ボイコフが祝賀資本主義と呼んだように、選手は道具にされているのです。限界まで努力してきた選手が見事な技を決めると観客や視聴者が感動し、感動は換金されてオリンピック貴族の懐にチャリンチャリンと入っていく。みんなが盛り上がると、社会の諸問題が忘れられます。これをスポーツウォッシングと呼びます。スポーツ選手は自分たちが搾取されていることを自覚しているのでしょうか。

吉見俊哉は、「より速く、より高く、より強く」というオリンピックのモットーが成長主義とリンクしていて、それから脱却しなければならないと書いています。つまり脱成長。開発主義から環境主義へ──。

以上、まだ自分のなかでも結論は出ませんが、ひとまずメモとして。

そうだ。アンケートによれば、オリンピックをやってよかったという人が多いそうですが、現政権の支持率は連動して上がってはいないようで、日本国民がスポーツウォッシングにごまかされなかったことは喜んでおります。

とりあえず、もう一息つきます。「ふう〜」