狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

山崎柄根『鹿野忠雄』

ブログをサボっていたときに読んでいた本の話を……。

山崎柄根による伝記『鹿野忠雄』(平凡社)を入手し、読みました。かのただお、と読みます。鹿野の人柄をもっと書き込んでほしかったけど、「わからないことを想像で補わない」という姿勢かと思います。本書にて著者は日本エッセイストクラブ賞受賞とのこと。

山極寿一・尾本惠一『日本の人類学』(ちくま新書)で、尾本氏が鹿野忠雄に言及していて、興味を持ちました。読んでからわかりましたが、若くしてさまざまな分野で多くの研究をし、内外に知られた学者であったようです。

鹿野は明治39年(1906)生まれ。開成中学時代から北海道や樺太におもむき、新種の昆虫を見つけて論文を発表する少年でした。開成中学を卒業後、台北高等学校に進学。台湾に行ったのは彼の地の昆虫を調べたかったからです。学校にはあまり行かず、親しくなった現地の蕃人とともに山に登り、多くの発見をしました。台湾には多くの原住民が住んでいて、首狩りの習慣を持った部族もいたそうです。

民族学にも興味をもつようになり、現地をフィールドワークしています。とくに孤島・紅頭嶼のヤミ族とは仲がよかったらしい。鹿野の研究は地理学にも及びますが、多くの学者と知り合う一方、各学問が細分化して縦割りになっている状況にうんざりもしています。

鹿野は戦争を嫌っていたようですが、昭和17年から陸軍の嘱託として戦地に赴きます。学術機関の整備や文化財の保護のためでした。当時、フィリピン先史学・民族学会の大物であるベイヤー教授が、非戦闘員であるにもかかわらずアメリカ人であるという理由で捕虜となっていたことに驚き、軍政監部にかけあって解放してもらっています。《アメリカ人解放の実情は、頭の堅い軍部を向こうにまわし、命がけであったよう》だと著者は書いています。

マニラで民族資料を集めたりしたあと翌年帰国、研究を大急ぎでまとめたあと、昭和19年、今度は学者・北村総平とともに北ボルネオに派遣されました。

現地では、司令部から出張する形で現地を調査しますが、戦況は悪くなり軍は転進(敗走)を繰り返します。現地民を連れて移動していた鹿野と北村は、出張のたびに期間を勝手に延長して調査をしていました。兵隊からは軍人嫌いで原住民と親しい変わり者と見られているようです。いつのまにか現地召集されていました。

昭和20年7月15日、鹿野・金子が目撃されていたのを最後に、二人は失踪してしまいます。鹿野は38歳でした。

日本軍に恨みをもつ現地民に殺された、じつは生きている……戦後いろんな憶測が飛びました。

戦後、ベイヤー教授が日本人収容所にいないことを不審に思って調べたようです。また、戦時中にボルネオの奥地に降り立った学者トム・ハリソンが原住民から聞いた噂話も伝わっていて、どちらも、鹿野と北村は日本人憲兵に撲殺されたということでした。現地調査していた彼らに現地召集の命令が届かなかったことが憲兵の反感を生んだと推測されるとか……。なんともやりきれません。

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現地民と親しくなる鹿野忠雄が、もっとも親しくしたのは前述の紅頭嶼のヤミ族です。ここ千年の間、台湾とフィリピンに連なるパシー海峡のバタン諸島にはフィリピン文化が伝わり、また近世以降はスペインやアメリカの文化も入っていましたが、紅頭嶼は目の前にある台湾に近づこうともしなかったこともあり、固有の文化(バタン文化)が残っていたそうです。台湾を統治していた日本政府・台湾総督府も教化しなかったそうです。

尾本氏の分類では、初期のノマド狩猟採集民の次の段階「定住し特定の植物の栽培(園芸・園耕)をおこなう者」に分類されるものだと思います。

台風を避けるため半地下の住宅に住み、男は漁撈に、女は農耕に従い、女はまた山の植物から得た繊維で糸を紡いだ。また、土をこねて土器を作るという、自給自足の生活である。
 ヤミの社会には首長制がなく、だれもが自由を楽しんでいる。人の上に人が立つということはないのである。しかし、この社会は、決して共産主義的な社会ではない。労働は買われることなく、たとえばミズイモ畑の開墾などを行うときには、親類、知人、その他手のすいている者が手伝う。手伝うことはいとわない。男系社会で、長男ができると、親は子ども本位に自分の名を改めるテクノミニーが行われる。男は父親のあとを継ぐ。しかし、遺産は娘を含め子どもたちに等分に分与される。

ヤミの社会は無文字文化で、独特の太陰暦があり、三年に一度うるう年があるそうです。台湾本島に見られる首狩りの習慣はない。酒も煙草も知らない。ミズイモはほうっておいても次から次へと生産されるといいます。

ここがマラリアや台風に侵される土地であっても、ヤミたちはまさに地上の楽園に住んでいる人々だといっても過言ではなかった。

彼らは丸太船ではなく龍骨をもった構造船「チヌリクラン船」を作ります。鹿野は彼らと親しくなり、松明漁(夜のトビウオ漁)やチヌリクラン船の進水祭に参加しています。

戦後、紅頭嶼を訪ねた学者は、鹿野のことを尋ねられ、死んだとは伝えられなかったそうです。現在は蘭嶼と呼ばれ、中国による同化政策が進んでいます。寂しいなあ。

日本の人類学 (ちくま新書)

日本の人類学 (ちくま新書)