狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

家族と分配

引きつづき、西田正規『人類史のなかの定住革命』について。良い本ですが、定住に関する前半の記述についてはいろんなところで読んだので、途中まで確認という意味合いが強かったんです。

とはいえ、「第十章 家族・分配・言語の出現」はなかなか刺戟的でした。今回は主に家族と分配について書きます。

あくまで著者の仮説ですが──。

棒や石を持ち歩くことで弱い中型類人猿が人類になりました。ただ、棒や石は狩猟に対してだけではなく社会の成員同士に対する強力な武器にもなり得ます。喧嘩をしたら命にかかわるのです。そこで、《彼らは、自身の持つ武器が、種内の社会において暴走することのないようさまざまな安全装置を備えなくてはならな》くなりました。

チンパンジーなどの類人猿は、《性と食べ物をめぐって緊張》します。人類も同じように、性と食べ物を争って喧嘩しがちであったでしょう。棒や石を持っているだけに社会は瓦解しかねません。

(略)この内なる危機への対処として、人類の社会にはさらに確実に安全を確保する必要が生まれた。分配や家族の形成、そして言語の使用を、私は、道具を持ち歩くことによって生じたこの危機をなんとか回避しようとした人類社会の解答であったと推察するのである。

 分配と家族は、いわば同じ根からでた二つの表現である。だかそれは家族が、特定の男女間で交わされる物の分配関係をきずなにして出現した、と考えてのことではない。そうではなくて家族は、複数の男女からなる社会集団の内部において、それぞれの男、あるいは女に、性関係を許す特定の異性を「分配」することによって成立した、と理解してのことである。

狩猟採集社会に共通する特徴のひとつは平等分配ですが、何度か書いたとおり、最近の私は、人類は生まれつき分配する動物だとは考えていません。本当は独占したいのに、集団を存続させるために平等分配をしているのです。

以前も引用した、人類学者・今村薫の文章(放送大学テキスト「総合人類学としてのヒト学」所収)より。

 サンの人々は気前よく肉を他人に与えるが、けっして生まれつきの「お人よし」なのではない。独占したい欲望、人より注目されたい願望、人を支配したい欲望が垣間見られることがある。だからこそ、ことあるごとに「分けろ」「人間は独り占めしないものだ」といった言葉を口にするのである。また、彼らは他人から妬まれることを非常に怖れている。
 平等主義社会とは、不平等の淵をのぞき込みながら、かろうじて踏みとどまっている社会なのである。

絶対的なボスがいて階級があり、誰かが多く分捕る社会は長続きしないと、何十万年、何百万年暮らすうちに気づいたのではないでしょうか。今と違って人口密度は低い。ノマド型狩猟採集民は所有物も少ないので、「イヤな集団だな」と感じたら勝手に抜けていけます。分配に関する西田氏の推論は私と同じですが、平等分配を家族に敷衍して考えたことはなく、新しい知見を得た気がします。

溜息交じりにつくづく考えるのですが──ここ数百年で資本主義みたいな分捕り合戦が蔓延し、誰かが誰かの奴隷になり、戦争も絶え間なく続いています。こんな混乱を避けるために、人類は分配を(家族や言語も?)生み出したのではなかったのか。最近、持続可能性という単語を聞きますが、数百万年も持続できた狩猟採集社会に学ぶことは多いと感じます。