ゴールデンウイーク、マイナ保険証普及のため税金使って広報すると発表されました。マイナンバーカードが普及すると政府に近い大企業は儲かります。CMや新聞広告を打つと、広告代理店が潤いますし、テレビや新聞にもカネが落ちるのでいろいろ問題があるマイナ保険証を批判しづらくなります。いろいろ利権がからんでいるんですね。庶民にはなんの得もありませんが。
おっとっと、本題に入ります。
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すでに書いたように、栗原康『死してなお踊れ 一遍上人伝』と原田信男『歴史のなかの米と肉』を立てつづけに読みました。後者にも一遍が出てきます。
原田氏は鎌倉新仏教は日本思想史上の大事件であり、それは《国家上層による肉食否定の社会的進行と、時代的に対応していた》と書きます。
体制側にとって、旧宗教(南都六宗の顕教や天台・真言密教)は、肉食タブーを支えてくれる精神的支柱でした。肉食うと穢れるぞ、米つくれ、というわけです。
ところが、旧宗教に《逸脱して活動を行なった無名の広汎な念仏僧たち》が興した新仏教は《国家仏教では救われない一般庶民でも往生できるところ》に自らの存在意義を見出したのです。狩猟や漁撈で暮らさざるをえない皆さんも往生できますよ、ということです。
親鸞の「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」(悪人正機説)の「悪人」とは、殺生を生業とする賤民を悪人と呼んだ説が有力なんだそうです。米中心主義が広まると、米をつくらないで暮らしたり水田を荒らしたりして、要は税金を払わない連中を、《人々は〝賤〟もしくは〝悪〟といって認識していった》のだそうです。
一遍の従者には、狩猟・漁撈に携わる「けがれたるもの」「非人」といった人々がたくさんいました。以下は、『死してなお踊れ』からの引用です。
一遍が少しよくなってくると、村からひとがあつまりはじめた。なんか、えらいお坊さんがきているらしいぞと。ほとんどは、狩人か漁師である。これはまえにもいったかもしれないが、仏教では生き物の殺生をするのはわるいことだ、けがれているとされていた。だから、そんなことをなりわいとして生きているやつらは、仏に救ってもらえないんだといわれていた。でも、一遍にそんなの関係ない。むしろ、そうやってひとを差別するほうがおかしいんだと。一遍はていねいに仏のおしえを説き、ほんきで念仏をとなえた。すると、村人たちは真剣にはなしをきき、手をあわせてナムナムやってくれた。うれしい。一遍はこうかたったことだろう。そのままでいい。徹頭徹尾、自由に生きろ。キレイもキタナイも関係ないね。まずはその発想からたたきつぶせ。
為政者から悪人のレッテルを貼られた人々、旧宗教で極楽に行けないといわれた悪人も救われるんだぜ、一緒にナムナム唱えよう。あああ、じつに立派だわ一遍。
一遍の遊行には女性が多かったのです。新宗教では、女人も往生できると説いたからです。となると、山中などで「悪党」に狙われる可能性もあります。
ところが、一遍ご一行様が美濃から近江を目指したとき、《東海道周辺にいる悪党たちが、こんな高札をだしたのだ。「一遍上人とそのお供をする人たちに、ご迷惑をかけるようなことをしてはいけません。したがわなければ殺します」。(略)おかげで、一遍たちは、昼夜を問わず、全国のどこをまわっても盗賊におそわれる心配がなくなった。》
私だったら、収奪される米なんかつくらず、山に入って狩猟採集するか、一遍といっしょに踊り念仏やります。バカにされても、気にしません。
ちなみに、旧仏教がなぜ狩猟・漁撈を否定しつづけたのでしょうか。寺社も荘園を経営していたからです。既得権益を守りたいのでしょう。昔も利権を守りたいのですね。