狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

『死してなお踊れ 一遍上人伝』

 一遍たちは未知の領域にふみこんでいった。人間の限界の限界の、さらに限界をこえて、ありえないようなうごきをみせはじめた。まるで痙攣でもおこしているかのように、ブルブルブルッと猛烈ないきおいで体をゆさぶり、フオオオッ、フォオオオオオッっと奇声をはっしながら、あらあらしくとびはねた。ひとにも物にもバシバシとぶつかり、スッころんでもすぐまた起きあがる。足が擦りきれ、血液がふきだしてもかまいやしない。まるで獣だ、野蛮人だ。ここまでくると身分の上下も、キレイも キタナイも、男も女も関係ない。およそ、これが人間だとおもいこんできた身体の感覚が、かんぜんになくなるまで、自分を燃やして、燃やして、燃やしつくす。 いま死ぬぞ、いま死ぬぞ、いま死ぬぞ。体が念仏にかわっていく。どんどん、どんどんかるくなる。まだまだいける、まだうごける。いくらはねても、つかれやしない。その力、 無尽蔵だ。ああ、これが仏の力を生きるということか。生きて、生きて、生きて生きて、生きて、往きまくれ。おまえのいのちは、生きるためにながれている。なんで もできる、なんにでもなれる、なにをやっても死ぬ気がしない。あばよ、人間、なんまいだ。気分はエクスタシー!!

栗原康『死してなお踊れ 一遍上人伝』(河出文庫)に出てくる踊り念仏のシーンです。ブッシュマンやピグミーのダンスのシーンを彷彿とさせます。今回は栗原氏の文章をまねてひらがなだらけにしようとおもいます。

鎌倉時代の僧・一遍(1239〜89)は、豪族・河野家にうまれ、武士にならずに出家。雑念をすて、念仏をとなえることで極楽浄土に往生できるとかんがえ、男女ともにつれだって全国を遊行しました。大勢と輪になって反時計まわりに念仏をとなえる「踊り念仏」で有名になり、いくさきざきにひとがあつまり、念仏札をくばりまくりました。『死してなお踊れ』は、一遍の生涯をおいながら、栗原康自身の思想をくりかえし語っている、ちょっと変な本です。

『はたらかないで、たらふく食べたい 増補版』(ちくま文庫)の感想にも書いたかもしれませんが、狩猟採集民の民族誌をよんでいると、いきつくさきは無政府主義なんです。アナーキストの研究をする栗原氏と共鳴するのはある意味あたりまえでしょう。

栗原一遍は《とにかく人間社会といてのは善悪優劣の尺度をたちあげてしまうものだ。ほんとうはそんなの、はじめから武力にたけていたり、金持ちだったり、あたまがよかったりする連中が、自分たちに都合のいいように、勝手につくってしまっただけなのに》。《一遍はそれじゃダメだというのである。いきぐるしい。いちどこの社会の地位だの、名誉だの、ひとをはかりにかける物差しなんて捨ててしまおう》と説きます。

女は不浄だから救われないだなんて、一遍はいいません。遊行には、非人や貧民やハンセン病者も同行していたそうです。

平等、先のことを考えず今を生きる、利他的、国家に従属しない、戦争しない、所有物が少ない、資本主義なんてなんやねんっ──ほら、狩猟採集民です。仏教には興味ないけど、栗原氏をつうじて一遍とむすびついてしまいました。冒頭の引用文も、私にはブッシュマンやピグミーのダンスの描写に見えちゃいます。

今夜はジョギングしながら念仏となえるぞ、なんまいだ、なんまいだ、なんまいだ、……