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『五輪と戦後』2/2

吉見俊哉『五輪と戦後 上演としての東京オリンピック(河出書房新社)のなかから、軍都がオリンピックシティになった、という話を──。

江戸以来、日本橋、神田、湯島、上野、浅草、両国など、江戸城から見て東、とくに東北方面が《宗教や学問、商業の中心地》でした。上野・寛永寺は徳川家の菩提寺であり、さらに寛永寺の先には、徳川家康を祀る日光東照宮が在ります。明治以降も、上野に博物館、美術館、動物園、東京藝大、本郷に東京帝国大学ができます。

関東大震災ののち、軍都・東京は西もしくは南西へと膨張します。とくに重要だったのは、大山街道(国道二四六号)沿いです。《明治中期には皇居付近の兵営が次々に大山街道沿いに移転し、赤坂、麻布、青山周辺は日本陸軍の中枢地区となっていった。この流れは渋谷周辺まで及び、》《さらに日清戦争後、》《明治三〇(一八九七)年に大山街道に沿って下馬、三宿、池尻、上目黒を結ぶ広大な土地に騎兵や砲兵のための駒沢練兵場が造営されていった。世田谷方面には、衛戍病院や関連機関、将兵の師弟たちのための学校も整っていくことになる》。

1945年に敗戦を迎えると、日本軍の施設の多くは占領軍に接収されるとともに、旧大山街道の赤坂、六本木などにアメリカ文化が浸透します。

1952年、米軍統治は終わり、接収された施設が徐々に日本に返還されると、スポーツ施設や公園になっていきます。つまり軍都・東京が1964年のオリンピック施設に姿を変えるのです。

下の地図は、1964年東京オリンピックの関連施設です。

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(①国立競技場 ②武道館 ③後楽園球場 ④早稲田大学記念会堂 ⑤代々木オリンピック競技場/選手村 ⑥駒沢オリンピック公園 ⑦馬事公苑 ⑧砧ゴルフ場 ⑨戸田漕艇場 ⑩朝霞射撃場)

国立競技場(①)は旧青山練兵場であり、占領下にはナイキ・キミック・スタジアムと呼ばれていました。

当初、日本政府や東京都は、1964大会の選手村を、埼玉県・朝霞(⑨)につくろうと思っていたそうです。戦前、朝霞には海外にも知られたゴルフコースがありましたが、戦時中、さまざまな軍事施設が置かれます。占領期には東京近辺最大の米軍基地キャンプドレイクとなっていました。それを返還してもらおうと考えたのです。選手村のほかにいくつかの競技施設も併設するはずでした。

ところが、交渉を始めた1961年に予期せぬことが起きます。米軍は都心の一等地である代々木のワシントンハイツを返還するというのです。

じつはアメリカの思惑は、東京の中心地から次々に米軍施設を消すことでした。55年の立川・砂川闘争や沖縄の反基地闘争、60年安保など、反米運動を恐れた米軍は目立たない戦略的判断を選択し、西東京外縁部(横田や座間や厚木など)へと隠れていくわけです。結果的に、返還されたワシントンハイツのあった場所に国立代々木競技場が建つことになります。

駒沢オリンピック公園、馬事公苑、砧ゴルフ場(砧公園)もたしかに246号線沿いです。オリンピック開催地と占領軍の地政学的戦略がリンクしているのがおもしろい。

朝霞では射撃がおこなわれました。

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一方、取り残された東京の東側について──。

日本は1940年の冬季オリンピックを誘致。候補地として最終的に札幌と日光が争い、札幌が勝利します。

《江戸時代、徳川家の最重要の聖地として優遇されてきた日光は、同じく江戸における徳川の聖地だった上野と同様、明治国家体制のなかでは周縁化されてきた。他方で札幌は屯田兵の開発基地であり、明治国家からすればその最初の内国的植民地経営の中心だった。つまり日光と札幌は、(略)江戸幕府の宗教的聖地と明治政府の反軍事開発基地という点でも対立しており、ここで再び近代日本は、国土開発的菜支点からも札幌の重要性に気を配ったとも言えるのである。そして札幌は、この一九四〇年のオリンピックが準備されていく過程で、それまで道内最大の都市だった函館を抜き、北海道の中心としての地位を確立していく。一九三〇年代から六〇年代までのプロセスで、札幌は函館とも旭川とも小樽とも異なる北海道の中の東京のような地位を確立していくのである。》

1940年の冬季オリンピックに札幌は選ばれますが、日中戦争のため返上します。1964年東京夏季大会ののち、1972年に札幌で冬季オリンピックが開かれたのは周知のとおり。

私は何度か「明治からずっと官軍・薩長支配が続いている。賊軍は差別され続けている」と書いていますが、戦後、札幌と日光の争いにもそんな事情が隠されていたなんて驚きです。

──2021年7月30日。感染者TOKYO3030。