狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

『七人の侍』の野伏せりと、放浪する博徒

私は、ヒエラルキーみたいものに縛られたくないんです。年齢や肩書きが上ってだけで威張りたくないし、威張られたくもありません。また、フラフラするのが好きなんです。今はマンションに住んでいますが、理想はノマドです。住所がなければ、税金払えの封筒もきませんしね。

だから狩猟採集民を好きになっちゃうんでしょう。彼らはリーダーのいない平等な社会で、簡素な家に住み、ときどき移動します。むろん国家の外にいます。

すると、いつのまにか私はアナーキズム(無政府主義)に共感するようになりました。さらに、大杉栄などを研究する栗原康の『死してなお踊れ 一遍上人伝』を読んで、一遍が救済しようとした中世の女性や非人や悪党にも興味が湧きました。

原田信男『歴史のなかの米と肉』には、こんなことが書かれています。──親鸞の「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」(悪人正機説)の「悪人」は、殺生を生業とする賤民を悪人と呼んだ説が有力。米中心主義が広まると、米をつくらないで暮らしたり水田を荒らしたりして、要は税金を払わない連中を、《人々は〝賤〟もしくは〝悪〟といって認識していった》のだそうです。

それで、網野善彦などの中世の話を読み直しはじめたのですが……。つい最近まで、アナーキズムや被差別民については興味深く読んでいただけですが、今では、アナキストや被差別民の視点から社会を見るようになっていました。狩猟採集民を知り、現代日本を冷ややかに見るうちに、自分の価値観がひっくり返ってしまったようです。

黒澤映画『七人の侍』をご覧になりましたか。私は少なくとも5回は見ているはずです。毎年秋に「野伏せり」に攻められて米を収奪される百姓たちが、わずかに残った白米で七人の侍を雇い、野伏せりに対抗する話です。近世の物語でしょうが、野伏せりは「米をつくらないで暮らしたり水田を荒ら」す悪党に違いありません。

私は、かつては思いもしなかったことを頭にうかべちゃうのです。

「どうせ年貢にとられる米をクソまじめにつくり、そのうえ侍を雇ってまで守ろうとするなんて、農民とはどんな奴隷根性だと、野伏せりは言いたかったのではないか」なんてね。

網野善彦の『中世の非人と遊女』には、最後のほうに博徒の話が出てきます。かつて博打、双六打は《平安末期の段階で、国衙の公的な行事においてなんらかの役割を果たす職能民として、国制の中に公的な位置づけを与えられていた》のだそうです。《少なくとも鎌倉期までの博打は、王朝の支配権の及ぶ社会では決して「日陰者」ではな》かったのですが、13世紀にかけて《博打は、「偏に是れ盗犯の基」「諸悪の源、博打より起こる」とまでいわれるにいた》り、悪党や遊女と同じように差別されるようになったと書かれています。

かつて私は阪田三吉のことをあれこれ調べました。上記の記述を読むと、阪田のライバル関根金次郎について知りたくなります。関根は全国を旅して、土地土地の親分に世話になった放浪の棋士なのです。清水次郎長一家とも交流があったとか。阪田も博徒にはちがいありませんが、珍しく旅をしない将棋指しなのでした。