狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

『ホモ・ルーデンス』2/2

以前、少年野球を観ながら、ふとこんな疑問が湧いたと書きました。

メジャーリーグやプロ野球に負けず劣らず、素人野球の観戦が楽しいのはなぜか

大リーグはムキムキの男性たちが投打や守備でスーパープレーを披露しますが、今年6、7月の、絶好調だった大谷翔平を見ていると、ホームランや長打を量産する大谷選手がまるでサイボーグに見えました。活躍が楽しくないわけではないのです。しかし、ジョギング中に眺める少年野球、草野球、高校野球、還暦野球、少年サッカーなどの、未熟な選手のプレーも負けず劣らず楽しいのです。

内緒で書きます。

もしかして完璧なものって案外つまらないのではないか──?

大谷翔平と少年野球(2) - 狩猟採集民のように走ろう!

天才・藤井聡太の将棋に関しても、こう書きました。

誰かが将棋は逆転のゲームだと言いましたが、藤井は、逆転されない正確な将棋を指します。

絶好調の大谷を見て感じたことをもう一度、小さな声で呟きます。

もしかして完璧なものって案外つまらないのではないか──?

少し前、小学生名人戦が放映されるのをたまたま気づいて録画。さすがに全国優勝を狙う小学生は強いんですが、まだ不安定な部分があります。鋭い手も多いけど、悪手が何度か出てきて、1局に何度か、確実に逆転があります。面白かった。

藤井聡太と小学生名人戦 - 狩猟採集民のように走ろう!

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ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中公文庫)にこうありました。

 さて、こういうスポーツの組織化と訓練が絶えまなく強化されてゆくとともに、長いあいだには純粋な遊びの内容がそこから失われてゆくのである。(略)これら職業遊戯者のあり方には、もはや真の遊びの精神はない。(456ページ)

 ところでこの見解は、スポーツを現代文化における最高の遊びの要素であると認める世間一般の輿論とはまさに真向から対立する。しかし断じてスポーツはそういうものではない。むしろ反対に、それは遊びの内容のなかの最高の部分、最善の部分を失っているのである。遊びはあまりにも真面目になりすぎた。(略)この真面目への傾斜ということは、非体育的な遊びにも当てはまるのだが、ことにチェスとかトランプのように、知能的計算がそのすべてである遊びがそうであることは、注目に値する。(457ページ)

私の考えることなんて、昔の人が書いてるってことです。 『ホモ・ルーデンス』が刊行されたのは1938年。85年後、プロスポーツ選手や棋士たちはますます真面目にサイボーグ化しています。私は大谷や藤井を見てすごいと思いますが、必ずしも最高のプレーヤーが観客に最大の昂奮を与えるとは思いません。

オリンピックも資本主義も、「より速く、より高く、より強く」がスローガン。もしも、世の中が「遅く、低く、弱い」ものの魅力を認めれば、脱資本主義につながるでしょう。大谷の年収は85億円といいます。資本主義においては高い人的資本(ヒューマンキャピタル)の持ち主にお金がどんどん流れるからです。弱小高校野球の試合や近所の子供の将棋だって、大谷や藤井のプレーと同じくらい楽しいとみんなが気づいてしまったら、価値の転倒が起きてしまうわけです。