狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

大谷翔平と少年野球(2)

『ポスト・スポーツの時代』

オリンピック前後から、スポーツの在り方について考えています。

前回書いたように、イチローが引退会見で暗にセイバーメトリクスやフライ革命などを批判したのだとある日、気づいたんです。同じことを、山本敦久というスポーツ社会学者が『ポストスポーツの時代』(2020年3月)で指摘していると知りました。著者は、フーコーや多木浩二や今福龍太らの先行文献を援用しながら私よりずっと形而上学的に踏みこんでいます。

著者のいうポスト・スポーツとは脱人間、脱自然、新自由主義的な方向に変化した現代のスポーツらしい。

上記のように、MLBでは、ビッグデータを駆使した作戦の変革や、バッティングやピッチングを即座に数値化しフォーム改善を図ることが行われています。主観的な感覚を客観的な数値に合わせて身体をサイボーグ化していくのです。

マラソンの厚底シューズも脱自然という意味では同じです。市民ランナーのわれわれですら、距離、スピード、心拍数、ケイデンスなどを測定しながら走っています。

(略)これまでスポーツをスポーツたらしめてきた「身体」「生身」「自然」「人間」といった概念は深刻に脱中心化され、いままで通りではいられないものになっている。このようなスポーツの変化は、危惧と歓喜の両面を示しながら、ポスト・スポーツとしか呼びようにない状況へと私たちを運んでいく。
 ポスト・スポーツという状況は、競技における「競争」をはるかに逸脱し、情報、知識、テクノロジー、データ、市場、企業のブランド、国家の威信の覇権を競い合うことで邁進する資本主義の熾烈な「競争」によって突き動かされているのだ。(72ページ)

脱ポスト・スポーツとは?

サッカーでも同様のことが起きています。2014年、ワールドカップ・ブラジル大会準決勝で、ブラジルが1対7でドイツに敗れた、いわゆる「ミネイロンの惨劇」は、ドイツがビッグデータとリアルタイム分析を駆使した結果だそうです。近代スポーツは、富める国は勝利してますます富み、持たざる国が敗北してますます困窮するという、新自由主義と同様の現象が起きているのです。

スポーツは公平性を保とうとしてきました。各競技は体重別に試合をしたり、パラリンピックでは障碍クラスを細分化したのです。ところが、多様な人間を線引きできるというのが幻想でした。男女の区分すら曖昧になり、陸上のセメンヤ選手や重量挙げのハバード選手などの問題が起きています。先に言った新自由主義的な環境の格差もあり、もはや平等で公平な競争は破綻しています。

では、新たな動きはないのでしょうか。……人種差別、環境問題、女性差別、ベトナム戦争や核の脅威を問うてきた一九六〇年代以降の社会運動の傍らでレジャームーヴメントが起き、「オルタナティブ・スポーツ」「ライフスタイル・スポーツ」などと呼ばれるスポーツが誕生しました。具体的に言えば、スノーボード、サーフィン、スケートボード、ロッククライミング、ウインドサーフィン、フリスビー、ストリート・スポーツなど。《これらのスポーツにおける身体的経験を通じた感覚変容は、しばしば前近代のスポーツや遊技への志向を持つ》と著者は書きます。

今福龍太が《絶対視されている勝利至上主義をどうやって相対化するか、近代スポーツを論ずるときにこれを相対化することは不可能なのか》(『近代スポーツのミッションは終わったか』)と言い、吉見俊哉が《「より速く、より高く、より強く」の時代から、「より愉しく、よりしなやかに、より末永く」の時代への転換》(『五輪と戦後』)と言った思想がレジャーとして実践されいたのだと知ったのですが……。

改めて、少年野球がなぜ面白いのか

スノーボードが新たな価値観のスポーツだと読んで頭に浮かんだのは、2010年の國母選手の騒動でした。あのとき礼儀がなっとらんとカンカンになった人たちは旧い封建的な価値観に縛られていた気がしていたからです。

では、新しいスポーツは、今も反競争主義・反資本主義を貫いているんでしょうか。

ほとんど見なかった2021東京オリンピック。IOCは若者の関心を集めるためいくつかの競技を増やしました。女子スケートボードでは、日本の若い選手が失敗して泣いているところへ各国の選手が寄ってきて慰めてくれたというエピソードが感動的に報じられていました。おお、あれこそ反競争主義の現れではないか!……いや、待てよ、家が欲しいと言った男子選手もスケートボードではなかったかな?(検索、カタカタカタ)ふむ。堀米雄斗選手22歳。報道によれば、彼の夢は「もっと大きな家を買うことと、大会だけじゃなく、映像を残して、米でもっと有名な選手になりたい」らしい。嗚呼。

──と、巨大資本主義が対抗文化(カウンターカルチャー)を呑みこんでいくさまを苦々しく見る私ですが、河原の下手な少年野球や草野球に魅力があることはなんとなくわかりました。スポーツが代理戦争だとしても、彼らのプレーは資本主義に併呑されていないホモ・ルーデンス(遊ぶ人間)の原初的な行為であり、それを見ることは遊びの本来の楽しさを共有することなのです。