読んでおかねばと、ヨハン・ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中公文庫)を通読。ホイジンガ(1872〜1945)はオランダの歴史家です。1938年に発表されたこの本では、人類はホモ・サピエンス(賢いヒト)ではなく、ホモ・ルーデンス(遊ぶヒト)であり、哲学も議論も法律も知識も戦争も文学も、すべての文化は遊びから発生していると書きます。なかなかの腕力です。
まずは、遊びの定義から。
遊びとは、あるはっきり定められた時間、空間の範囲内で行われる自発的な行為もしくは活動である。それは自発的に受け入れた規則に従っている。その規則はいったん受け入れた以上は絶対的拘束力をもっている。遊びの目的は行為そのもののなかにある。それは緊張と歓びの感情をともない、またこれは「日常生活」とは「別のもの」という意識に裏づけられている。(81ページ)
ホイジンガは、世界のさまざまな事例を持ち出し、人間文化のなかに遊戯が含まれているのを指摘します。日本の事例も少なからずあります。連歌のなかにある闘技性は、ラップのMCバトルのそれと重なっているのかもしれませんね。
しかし、最近、様相が変わってきました。ホイジンガは、遊びの対義語を真面目としていますが、人間社会はどんどん真面目になっているようです。
こうして蒸気機関から電気へと、工業的・技術的発展が大きく進むにつれて、この発展のなかにこそ文化の進歩があるのだとする錯覚がいよいよはびこっていった。その結果として、経済的なもろもろの力関係、利害関係が世界の進路を決定しているとする恥ずべき謬った考えが提唱され、それが世に行われるようになった。社会と人間性心のなかで経済的因子を過大に評価することは、ある意味では神秘というものを殺し、人間を罪業、罪責から解き放った合理主義と功利主義の当然の成行きである。しかしそれと同時に、彼らは人間を愚かしさと近視眼的けちくささから解放してやるべきなのに、それは忘れていた。(略)(446ページ)
ホイジンガは、19世紀を人間の歴史上、もっとも遊びの少ない真面目な時代と見ていて、それを資本主義、合理主義、功利主義と結びつけているようです。たとえば、文学はロマン主義から、自然主義・写実主義の時代になりました。
社会はその利害関係と意志を、あまりにも意識しすぎるようになったのだ。(略)社会は科学的計画に基づいて、自らの、現世の利益にいそしんだ。労働、教育、そして民主制などの理想は、遊びという永遠の原理を容れる余地をほとんど残さなくなったのである。(451ページ)
資本主義が世界を覆い尽くし、人間は「ホモ・エコノミクス」に変節しました。経済活動がすべて。遊びを知らない真面目な人たち。
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余談。ホイジンガは歴史家ですが、人類学に関しては詳しくなかったらしく、原始社会を十把一絡げにしています。巻末に附された対談に、そのような批判があったと書かれていました。