狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

独占したがる人たち

久しく狩猟採集社会について直接書いてないので、今朝考えていた雑感をメモします。

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狩猟採集民は平等分配することで知られます。熱帯の森に暮らす人から厳寒のイヌイットまで共通する特徴です。(ほかにも、リーダーがいないとか、いくつか共通点があります)

しかし人間は本来モノを独占したいと思っているはずです。狩猟採集社会の子供は、研究者にクッキー1枚もらったりすると全部食べたがりますが、大人から「みんなと分けなさい」と言われ、平等分配の訓練を受けるそうです。子供たちがバナナ1本を公平に分ける遊びをしていたのはボルネオのプナン族だったっけ。

ブッシュマンのある集団では、ハンターは別の人がつくった矢を使うそうです。獲物がとれた場合、弓を射た者だけでなく矢をつくった者も栄誉があるとされます。天狗になるのを防ぐんですね。獲物はみんなで分配しますが、当然のことなので誰もお礼は言いません。「ありがとう」という言葉がないと書かれたレポートもたくさん読みました。

本来、人間は独占したがる利己的な性質を持つのだと思います。しかし、何十万年も生活するなかで、利己的な本性を押し殺して平等分配をしたほうが長い目で見て暮らしやすいことに気づいたんでしょう。

ところで、彼らは甘いものを食べません。砂糖はありませんし、彼らが食べるイモや果物は品種改良されていないから糖度が低い──つまり甘いものが嫌いなのでなく少ないのです。ハチミツはみんなの大好物です。蜂の巣を見つけると、彼らはどんな危険をおかしてもハチミツを取ろうとします。

ハチミツを目の前にすると彼らに深くしみついている平等分配のルールを狂わせる、という話はいくつか読みました。ネットで読める記事をリンクします(→狩猟採集民の甘い夢(カメルーン) | アフリック・アフリカ)。以下の一文にドキッとしました。

平等主義の陰で、人々は独り占めしたいという欲望と絶え間なく闘っていたのである。

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振り返って現代日本を見ると、新自由主義(ネオリベラリズム)が行き過ぎて、強者が自分でルールを変えたり利権を創出し、より儲けています。甘い汁を独占してすすりたい放題なのです。搾取された人々は痩せ細るばかり。

人口が殖え、血縁関係や仲間ではない人たちと集団で暮らす人たちが利他性を発揮できないのはある意味しかたありません。であるならば、税金を取っている政府がきちんと「再配分」しなければならないのです。どのくらいの再配分が望ましいか、ルソーは『社会契約論』(光文社古典新訳文庫)でこう書いています。

富の平等とは、いかなる市民も他の市民を買えるほどに裕福にならないこと、いかなる市民も身売りせざるをえないほどに貧しくならないことを意味するものと理解すべきである。(111p.)

つまり、みんなが誰かの奴隷にならない程度には再配分せよと書いているのです。富裕層から税金を取り、困窮者を救うことが大事です。「困っている人は自己責任だ」というのが新自由主義で潤う人たちの決まり文句にごまかされてはなりません。

[国家は]百万長者も乞食も存在しないようにしなければならない。この二つの身分はもともと不可分に結びついているのであり、どちらも公共の幸福に有害なのである。乞食の身分からは、暴君の政治を扇動する者が生まれ、百万長者の身分からは暴君そのものが生まれる。この両者のあいだで、公共の自由が売り買いされるのである。一方がそれを買い、他方がそれを売る。(114p.)

狩猟採集民のレポートを読み、野生人の生活を取り戻せ、さもなくば国が滅ぶぞと『人間不平等起源論』で警鐘を鳴らして約300年、残念ながら日本は崖っぷちに向かって一直線に進んでいる気がしてならないのです。未読でしたら、斎藤幸平『人新世の「資本論」』(集英社新書)もぜひ。