狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

イリイチとNHK「消滅集落の家族」

狩猟採集社会から派生した私の興味のひとつは、資本主義の外側を探ることです。

深夜、読みかけのイヴァン・イリイチ『コンヴィヴィアリティのための道具』を片手にリビングに行くと、妻がETV特集「消滅集落の家族」(→NHKオンデマンド)の再放送を見ていました。秋田県の、誰もいなくなった集落で暮らす家族の1年間を追ったドキュメントです。

無農薬の米を栽培し、野菜をつくり、山菜を摘んで生活します。狩猟はしていないのかな。冬の雪かきは本当に大変です。2人の小さな子供は、カエルやホタルとたわむれ、親と一緒に野良仕事をしていました。鎌を持って稲刈りしたり、味噌づくりを手伝ってもいます。自然や生活術を楽しく学習しているのです。

完全な自給自足が理想と夫婦は語りますが、長男が1年生になると、子育ての資金が必要になりました。学校は資本主義の制度のひとつなのです。お父さんはアルバイトもしています。

イリイチは人々の自立共生(訳者はタイトルのConvivialityを、本文では自立共生と訳しています)を脅かすあらゆる道具(ツール)を批判しています。学校教育もそのひとつです。

 学習が教育に変質したことは、人間の詩的能力、つまり世界に彼個人の意味を与える能力を麻痺させている。人間は、自然を奪われ、彼自身ですることを奪われ、彼が学ぶように他人が計画したことではなく、自分の欲することを学びたいという彼の深い欲求を奪われるならば、ちょうどそのぶんだけ生気を失っていく。(略)学習のバランスの堕落は人々を道具の操り人形にしてしまう。(ちくま学芸文庫『コンヴィヴィアリティのための道具』、138p)

この番組を見て、イリイチの言うとおりかもしれないなあ、と感じました。

近代日本にも自給自足的な生活をする農家がたくさんあったのです。しかし、資本主義社会の波が押し寄せ、彼らを貨幣経済のシステムに呑み込んでいきました。戦後の減反政策は、地方とくに東北から余剰労働力を生みだし、高度経済成長の労働力に充てました。

イリイチは書きます。

 おなじ時期(引用者註・1820〜50年)に、工業ははじめてほかの生産洋式との競争に勝利した。工業の達成したものが、全経済における人間活動の有効性を計る尺度となった。家事、農作業、手工芸、それに保存食作りから家の手作りに至る自給自足的活動が、生産の補助的なあるいは二流の形態とみなされるようになった。工業的様式は社会に共存していた生産的な諸関係の連鎖をまずは格下げし、ついで麻痺させたのである。(同、196p)

現代の社会はやはり何かが狂っています。誰もが生産主義的・資本主義的な貨幣経済のサイクルに巻きこまれ、一人一人が人的資本とか人材とか呼ばれるのです。そして、増税……。資本主義から逃れるにはどうすべきなのか。私は「消滅集落の家族」の生活に正解の一端と、その崩壊の危機を同時に見た気がしたのでした。

その後、明け方までかけて『コンヴィヴィアリティのための道具』を読み終えました。また書くことがあるかも知れません。