狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

『学びの本質を解きほぐす』1

私はただいま57歳。微分積分とか三角関数とか、仕事上不必要なこともあり、私はいまだに理解していません。数学は崇高な学問と認識していますが、高校の数学を「ちゃんとやっておけばよかった」と後悔したことはない気がします。日本史や世界史の年代もだいたい忘れましたが、検索すれば瞬時に答えは見つかりますし、卒業後に読書で得た歴史の知識のほうが役に立っています(過去の出来事を学んで現在の社会をきちんと把握し、未来をよりよくする方法を考える視座を持てるという意味です)。英語は、簡単な文章を読めるレベルでしたが、最近はそれもあやしい。

なんでも吸収できる脳みそを持っていた若い時期に、厖大な時間をかけて将来忘れてもかまわない知識を詰めこむことに意味があるのでしょうか。

私の場合、大学に入るまでに獲得した技術で有用だと思うのはただひとつ、難しい文章を読めるようになったことです。たとえば、現在の諸問題の多くは過去の思想家が頭から湯気を出して考え抜いてくれていて、抽象的な文章をきちんと読めさえすれば問題解決のヒントがつかめます。ただ、読解のコツをきちんと教わったのは高校ではなく予備校でした。

池田賢市『学びの本質を解きほぐす』は、たいへん面白い本でした。不登校、学力、障害、道徳、校則について語られています。本全体の「ヘソ」を確認するために、「終章 あらたな学びのイメージを」を読んでから通読するのがいいかもしれません。

池田氏は、学校そのものを疑い、世間の人たちが「そうするべきだ」と思わされているものをガンガン相対化していきます。 たとえば、不登校は生徒の問題なのか? 長期休暇のあとに学校に戻りたくないと多くの生徒が自死することを見ても、問題は学校にあるじゃないかと著者は書きます。障害者はなぜ別学に通わされるのか。教育現場で障害者をかわいそうな人とみなす理由は何か。道徳で子どもの内心に踏みこむことは正しいのか。成長しなければならないというのは幻想ではないか。答えが決まっているものを解答できることが成長なのか……。ボエシの自発的隷従、イリイチの脱学校化、フーコーの煉獄の誕生なども盛り込まれています。学校は──控えめに言って今の日本の学校は──社会の歯車を作る場所です。

教科化された道徳には「いいところ探し」という実践があるのだとか。《子どもたち同士がお互いの良いところを指摘し合い、相互の理解を深めたり、自尊感情や自己肯定感を育むことに有効であるとされている》──なんだ、それ?

しかし、そもそも他者からほめられたり、励まされたりしなければ形成されないようなものが自尊感情なのだろうか。それは、子供たちを他者の価値観に依存することでしか自己を保てない状態にしていくことになるのではないか。自己肯定どころか自己否定を基板とした服従の精神の涵養ということになるのではないか。同時に、つねにお互いの行動をチェックし合う監視社会をも実現してしまう。(175ページ)

当ブログで何度も書いたように、現代日本社会の学校は為政者や資本家にとって都合のいい奴隷を育てているかのようです。さらに近年は愛国教育までしています。結果、政府に批判的な人を、権力者の奴隷たちが叩くようなことさえ起きる始末です。

では、もともと人間はどうやって学んだのか……については、狩猟採集社会の民族誌を読めばいい。一例を挙げれば、原ひろ子がフィールドワークしたヘヤー・インディアンには、「教える-教えられる」という概念がなく、したがって「Learn」にあたる単語がないそうです。みんな、年上の人がやっていることを見て学んでいきます。

霊長類最大の脳みそを持つ人間の子どもたちが、学校で「学力」により不当に順位をつけられ、「道徳」で心をコントロールされ、理不尽な「校則」を丸呑みさせられているのは考えてみればおかしなことです。

奴隷だらけの国で生きていくことに絶望を感じることは多々あります。絶対視されている学校の当たり前、社会の当たり前、資本主義の当たり前を疑い、相対化する人が一人でも増えてほしい。クリティカルシンキング(批判的思考・内省的思考)の参考書としても、『学びの本質を解きほぐす』をおすすめします。

 

この本の話、もう1回書きます。