狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

『学校制服とは何か』

たいへん勉強になりました、小林哲夫『学校制服とは何か』(朝日新書)。著者の肩書きはジャーナリストで、1960年生まれとのこと。私より5歳上です。

まずは、個人的なこと

私が通った男子校は私服オッケーでした。1960年代に高校紛争が起きて制服が自由化されたそうです。基準服と呼ばれる詰襟で通う生徒も多かったんですが、私はだんだん私服で通うようになりました。私服で通うヤツは賢いかバカだと言われていたっけ。むろん私は後者のほうで……。

校則は緩く、生活指導も他校からしたら甘かったんじゃないでしょうか。当時流行していた校内暴力もなかったはずです。運動部は顧問次第で厳しかったようですが、私は将棋部にいたので上下関係はゆるゆるでした。将棋には年齢差とは別に、将棋の実力という物差しがあるからだと思います。

大学のゼミでは、先生と学生は対等に議論していました。日々、権力にカウンターを喰らわせて絶対的な価値観を相対化する思考訓練(今ではクリティカル・シンキングと呼ぶはず)をしていたので、大学や教授という存在も、疑うべき権力だったんです。

今は個人事業主ですから、上司も部下もいません。

そんな環境で暮らしたせいか、私は、階層とか、絶対的上下関係とか、威張る人などが苦手です。狩猟採集社会に魅了されたのは、彼らにはリーダーがなく平等分配社会だからです。

私からすると、日本の教育はかなりおかしい。小学校のランドセルとか、かつての詰襟は軍隊みたいです。セーラー服も海軍の制服。運動会ではお遊戯や行進や組体操など、赤組・白組の勝敗に関係ない演目を延々練習させられますが、あれらもロシアや北朝鮮さながらです。

制服と管理

『学校制服とは何か』は、多くの取材や資料をもとに、戦後の制服の歴史や制服にこめられた思想について書いています。学生服メーカーにも取材しています。制服自由校一覧を見ると、ほぼ北海道から兵庫の学校ばかりで、中四国・九州ではたいへん珍しい制服自由校に私は通ったらしい。

 制服にはさまざまな思想が内在する。文化(最先端の流行、風俗)、政治(管理、統率のツール)、経済(格差の顕在化)、社会(犯罪、安心と安全)、科学(品質の技術革新)などだ。そういう意味で、これほど魅力的でおもしろいテーマはない。

(経済には、カンコーやトンボなど学生服メーカーの経営も含まれますね。)

ちょっと怖いのは──1960年代、制服が《管理、統率、抑圧の象徴》だと気づいた高校生が制服の自由化を勝ち取ったのに、現在、ふたたび制服復活の動きがあるらしいことです。生徒たちも「かわいい」制服を着たいという憧れがあります。

(略)管理されているという受け止め方は稀薄であり、かわいいものを着ているという意識が強い。教師からすれば、かわいい制服を嬉しそうに着ている生徒に学校が好きだと言われれば、厳しく管理しているという感覚はなくなるだろう。
 制服の思想において、かわいいという生徒の感受性が、指導という名の管理を駆逐してしまった瞬間だ。

さらに、AO、推薦入試の増加で、優等生が多くなった、とあります。素直でものわかりがよく、校則にきちんと従う生徒。制服を改造してスカート丈を長くしたり短くすることもない。《制服の思想に大学入試が入り込んでしまったわけだ》。

主-従関係、奴隷、自由などについて考えている自分には、空恐ろしい事態です。ミシェル・フーコーは、学校を権力に従順な人間をつくる装置だと書きました。

感受性豊かで多様性を持っているはずの人間が、小中高の12年間、制服を着て授業を受けて牙を抜かれ、「学校とは何か、管理とは何か、制服とは何か」について一秒も疑うことなく社会に出て、いきなり会社組織や政治などに疑問を挟むことができるでしょうか。