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将基面貴巳『反「暴君」の思想史』と神宮外苑

先日書いた将基面貴巳『従順さのどこがいけないのか』(ちくまプリマー新書、2022刊)は、『反「暴君」の思想史』(平凡社新書、2002)を若い人向けに書いた本だとあったので、しばらく前にそちらも読みました。

冒頭の1行目に痺れます。

現代日本は「暴政」への道を歩んでいるのではないか。

2002年3月刊ですから、第一次小泉純一郎内閣のまっただなか。強い言葉を吐く小泉氏の支持率は高かった。ちまたでは日韓ワールドカップで、みんなほちゃほちゃ浮かれていました。

当時の私はフリーランスに転じたばかりで慌ただしく、政治に対する感度も低かったと白状します。竹中平蔵の大臣登用や郵政民営化などがのちにどんな影響を与えるか、まったく予想していなかったのです。ところが、私より2歳年下の将基面氏は、すでに日本が「暴政」の危機にあることを見抜いていました。

ケガしても土俵に立ち優勝した貴乃花に向かって、小泉は「痛みに耐えてよく頑張った」と言い総理大臣杯を渡しました。2001年観客はヤンヤの拍手を送りました。小泉のキャッチフレーズ「痛みを伴う改革」をもじったセリフでしたが、哀れなことに、多くの国民は自分たちが痛む改革だと気づいてなかった。以後20年、見事に自公政権は暴政を繰り返しています。

おっと、脱線。

『反「暴君」の思想史』は、暴君放伐論すなわち「暴君は殺すべきか」について考えた哲学者の思想史です。それは共通善 common good について考えることでもあります。共通善に反して利己的な政治をするのが暴君(独裁者とは限らない)ですから。

西洋では、古くから暴政について考察されていましたが、江戸期まで日本には「共通善」という概念がないため「暴君」に関して考えた人もいなかったとあります。

福澤諭吉が暴君放伐論を紹介したのが初めてらしい(恥ずかしながら、『学問のすゝめ』も初めて通読。百数十年経っても日本が変わってないので現代に通じる思想書でした)。諭吉先生曰く、

余輩の聞くところにて、人民の権義[権利]を主張し、正理を唱へて政府に迫り、その命を棄てて終はりをよくし、世界中に対して恥づることなかるべき者は、古来ただ一名の佐倉宗五郎あるのみ。

江戸期には、悪い主君には諫言せよという考え方はありましたが、殺せとまでは言わなかったのです。山本常朝『葉隠』などは、主君がどんな悪いヤツでも最後まで忠義を尽くすのが武士だと説いているほどです。

最後に著者は書きます。

(略)本書でとり上げられた徳川時代の政治思想の議論に、現代日本に生を営むわれわれが特に意識することもなく日常的に用いている論理と類似したものを、炯眼なる読者は見出されたことであろう。それこそは、「日本」人の政治的思惟を、時代を越えて規定しているパターンなのであるといえよう。それを読者自らが発見されるとき、われわれの「共通善思想」への道程が始まると、私は確信する。

私は、現代日本は徳川幕府が薩長幕府になっただけで、日本の本質は封建的な社会だと考えています。トップの政治家は明治の元勲の血を引いていて、多くは縁戚関係にあります。同族経営の会社みたいです。さらに、メディアも司法も官僚も「共通善」より政治家の顔色を気にしているからやりきれません。

著者は、江戸時代から常識だと思っていること、ぼんやり見過ごしていることを内省し「共通善」について真剣に考えよ、そうでなきゃ暴政にやられるぞ、と檄文を送っていました。でも、20年経っても、みんな政治には口を閉ざし、されるがままになっています。奴隷みたいに。

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話が換わります。

昨日、文化放送『大竹まことゴールデンラジオ』を聞いていたら、神宮外苑の樹木伐採に抗議しているロッシェル・カップさんがゲスト出演されました。どうして外国人の彼女が日本の問題に抗議の声を上げたのか。

「日本人の友人に聞いたら、日本人はなかなか声を上げづらい。アメリカの文化は『声を上げましょう』だ」と言うのです。

日本人が「日本人って声をあげづらいのよね」と言っちゃうんだ。なにそれ、情けない。日本には同調圧力が強いとか、空気を読んで異論を挟みにくいとか、実際あるのかもしれません。だけど、自分はそんな同調圧力に抵抗し、空気を読まないぞと決めてしまえばいいのです。「私も日本人だから、同調圧力には負けちゃうよね」は言い訳です。

特定のデベロッパーやゼネコンが儲けることと、神宮外苑の杜を残すこと。あなたは、「共通善」にかなう行為はどちらだと思いますか。