狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

『脱学校の社会』

イヴァン・イリイチ『脱学校の社会』(東京創元社)を読みました。原著は1970年刊行。(東京創元社の表記では、イリッチですが、イリイチに統一します。原題は、Deschooling Society)。『コンヴィヴィアリティのための道具』(ちくま学芸文庫)と似た内容です。興味のある方は、『脱学校の社会』から読んだ方がよさそうです。

イリイチのいう「脱学校化」は、学校を破壊せよという意味ではありません。学校および学校に見いだされる「価値の制度化」を疑い、改変することで人間性を取り戻そう、くらいの意味合いです……多分ね。学校のほかに、交通インフラ、医療などの制度からも脱すべきだと書いています。成長と消費を求める資本主義へのカウンターになっていて、つまり1970年代にいちはやく「脱成長に舵を切れ」と主張している人のようです。

ヘアー・インディアンの社会には「教える」「教えられる」という観念がないと原ひろ子が書いていました。みな、他人の仕事を見て学び、工夫を凝らし、立派に成長していきます。ところが、現代の人間はカネを払って学校に通い、決められたカリキュラムを叩き込まれ、何年学校に行ったか(つまり何年カネを払ったか)で学歴に差が生じ、平等であるはずの人間社会に格差ができてしまいます。

学校は資本主義のシステムに過ぎないのです。教育は義務だからカネ払え、教えたいなら資格とれ、学齢が同じ者同士で同じことを学べ、なんて制度はいびつです。虫を捕ったり、友達と釣りに行ったり、親の手伝いをして農作業や子守りをしたほうが、よほど楽しく安価で、ストレスなく生きる技術を学べるでしょう。

そもそも、子供ってなんでしょうか。

《幼年期、青年期、あるいは若者時代(ユース)などから区別された子供時代というのは、歴史上ほとんどの時代において知られていなかった。》《産業時代となってからはじめて「子供時代」の大量生産が実現可能となり、また大衆にも手の届く者となった。学校制度は、それがつくり出す子供時代と同じように、近代に出現した現象なのである。》(60〜61頁)

日本においては、「子供」も「学校」も明治に発見され、いつの間にか学齢の児童は半強制的に学校に通わされました。昭和に生まれた私なぞ、学校は通うべきところだから通っただけです。

しかし、私のように「通うべきところだから通った」と、学校の「価値の制度化」を内面化(無批判に承認)してはいけない、と著者は主張します。一度学校の必要性を受け入れた人間はどんな種類の制度的計画をも受け入れる状態に陥り、本来持っていた想像力の発展をはばまれるからです。近所の奉仕活動より、専門の制度で生み出されたもののほうが価値があると思いこみます。そうして、資本主義の成長の罠から抜け出せず、環境を破壊してまで成長する社会を是認してしまう。

では、学校をなくしてどうやって学ぶんだ、については第6章に書かれています。解説にあるとおり練り上げられたものではなさそうですが、近隣のコミュニティで、年齢差なくみんなで知恵を交換しよう、という意図は伝わります。

脱成長・脱産業化・脱資本主義を考えるうえの、必読図書です。

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いつもの蛇足です。

今はどうか知りませんが、私が学生のころは、小学生の3割、中学生の5割、高校生の7割が落ちこぼれると言われていました。授業についていけなくなった生徒たちは、1日に何時間も、日本語に似た意味不明な言葉を聞き流していたことになります。それでも椅子に座っていなきゃならないなんて、どんな地獄でしょうか。

私も中学あたりで勉強を半分諦め、高校ではたいていの授業を読書の時間に充てました。ところが、二浪の末なんとか滑りこんだ大学は楽しかった。小中高と違い好きな講義をとれます。本をたくさん読み、脳みそふりしぼって論文を書いたもんです。高校で習う世界史や日本史やで、単語や年号をたくさん記憶していることなんて「知」と呼べないと、今の私は理解しています。

死ぬまでに世界を理解することはできないとわかっていますが、五十代半ばになっても興味ある本を読み、日々発見をしているつもりです。必要があるなら英語以外の外国語にチャレンジしたり、三角関数を再学習するかもしれません。毒キノコを見分ける能力はぜひ身につけたい。自分の力でできるなら、資本主義の外で生活するよりよいコミュニティをつくりたい。……全部、学校で教えてくれなかったことですね。