狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

人材ぎらい……『学びの本質を解きほぐす』2

「人材」「人的資本」「生産性」なんて単語を苦々しく見ていましたが、先史社会のことを考えるうち嫌悪感が増しました。現代人は人格全てが資本主義に取りこまれているみたいです。人間は材料でも資本でもないのに。

何年かの野党合同ヒアリングで、野党議員が官僚に「どうして外国人労働者を外国人材と呼ぶのか」と質問すると、「上のほうからそう統一しろと言われまして」と答えたのでゾッとしました。素材・木材・角材・建材・人材。

国立国会図書館デジタルで検索してみたところ、「人材」は1990年代以降、「人的資本」は2000年代以降に急増しています。すなわち、資本主義が暴走を政府が抑制せず格差が拡大する「新自由主義」と連動して増えているのです。人間までコストとみなす時代の到来です。

しかし、今回の投稿は、実のところ、日本には人を材料としてみなす下地がずっと前からあったのだというお話です。

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『学びの本質を解きほぐす』にこんなことが書かれていました。

戦後、学校教育は《経済成長のための人材養成機関として位置づけられてい》て、《そこから離脱すること、あるいはこのような構造自体を問題視することは、「物語」を破壊する行為であり、「国の豊かさ」に貢献せず、「幸福」に生きようとすることを阻止する危険な思想として位置づけられていく。》

生徒たちが《「人材」である限り、「役に立つ」ことが求められる。》《役立ちの度合いによって処遇に差が設けられることが正当化され》、《それが「平等」だとされていく。 これは、実は高度経済成長期において顕著になってきたというわけではない。たとえば、文部省(当時)が1948年に刊行した「民主主義」という「教科書」には、次のような記述がある。民主主義社会をどのように理解しているかがよくあらわれている》。

人間の平等とは、かように、すべての人々にその知識や才能を伸ばすための等しい機会を与えることである。その機会をどれだけ活用して、各人の才能をどこまで向上させ、発揮させて行くかは、人々それぞれの努力と、 持って生まれた天分とによって大きく左右される。その結果として、人々の才能と実力に応じた社会的地位の相違ができる。それは当然のことである。だから、民主主義は人間の平等を重んずるからといって、人々が社会的に全く同じ待遇を受けるのだと思ったら、大きなまちがいである。 すぐれた能力を持つ人、学識経験の豊かな人と、無為無能で、しかも怠惰な人物とが、全く同じに待遇されるというようなことでは、正しい世の中でもなんでもない。それは、いわゆる悪平等以外の何ものでもない。 公正な社会では、徳望の高い人は、世人に推されて重要な位置につき、悪心にそそのかされて国法を破った者は、裁判を受けて処罰される。 むかし、ギリシアの哲学者アリストテレスは、人間の価値に応じて各人にそれぞれふさわしい経済上の報酬と精神的な名誉とを分かつことが、正義であると説いた。民主主義的な正しい世の中は、人間のねうちに応じた適正な配分の上にうち立てられなければならない。

《民主主義を普及する文部省著作の教科書としてつくられたものであるが、この認識をみる限り、人権が尊重され、安心して過ごせる社会が構築されようとしていたとはとても思えない。結局、競争をして、誰かに「能力がある」と認められるために勉強をするという枠組みが確認されているに過ぎない。》

ショック。いつか紹介した「通俗道徳」と変わりません。戦後日本は、初めから平等や人権の意味をはき違えていたわけです。いくら頑張ったって、病気や怪我など何らかの不幸で弱い立場に陥ることもあります。どんな人でも救おうとするのが国家ではないのでしょうか?

仮に「機会の平等」だけが平等だ、としましょう。努力して自分の「ねうち」を高めれば社会が優遇してくれるぞ、落伍者は不遇をかこつぞ、という社会を、千歩も万歩も譲って容認したとしても……勉強したことがなく、学識経験に乏しく、無為無能で、しかも選挙のとき以外は怠惰な人物が、世襲というだけで大臣や総理大臣になるのは不可解ではありませんか。