狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

栗原康『はたらかないで、たらふく食べたい』

1ヶ月ほど前、NHKラジオの高橋源一郎「飛ぶ教室」に栗原康がゲスト出演しました。栗原氏も(高橋氏もですが)私と同じタイプだとすぐにわかりました。ネクタイを締めるのは首をくくられるのに等しいと考える人間がいるんですよ。

栗原康『はたらかないで、たらふく食べたい 「生の負債」からの解放宣言』(ちくま文庫)をさっそく読みました。言葉が一気にほとばしる平仮名多めの文体は町田康のエッセイを思わせます。

栗原氏は両親とともに暮らしながら大学勤めや原稿を書いて、世の中の平均より低い収入で生きているようです。つき合っていた女性からは社会に不適合な人間だとしてフラれたらしい。

暴走した資本主義はなんでもかんでも損得勘定で判断します。栗原氏と結婚して得はないと判断した女性は資本主義としては正しい。でも私は、資本主義のルールを一度疑ってみませんか、と言いたいのです。栗原氏もそう考えています。

《ほんとうは、ひとによくしてもらったって、ありがとうといってヘラヘラしていればいいだけなのに、なんだかビビってしまって、恩を返そうとするからとんでもないことになる。まわりを犠牲にしてきたのだから、自分も犠牲になってそれに報いなくてはならない。これだけのことをしたら、これだけ見返りが必要だ。はたらいて対価をもらう。(略)善悪優劣をきめるシステムができあがり、そのなかでしか生きられないとおもいこまされる。一遍上人の時代であれば、農業をやれといわれて、みんなおなじような土地に囲いこまれ、他人の目線を気にしながら、家畜のようにはたらかされるのだ。たまらない。》

《たしか、哲学者のニーチェがこんなことをいっていた。目のまえにこまっているひとがいたら、迷わずほどこしをしよう。そのかわり、それをみているやつらがいたら、記憶がなくなるまでこん棒でうてと。そして、そのあと自分のあたまも空っぽになるまでブッたたくのだといっていた。》《むかし、これでなにをいっているのか、さっぱりわからなかった。でも、いまはなんとなくわかる。ようするに、ほどこしを感謝という見返りに変えるなということだ。》(栗原さん、ニーチェの出典を教えてください)

他人に親切にしてもらうことにいちいち「ありがとう」と言い、負い目(負債)を感じていたら、あちこちで「お返しが足りないかしら」というストレスが溜まり、白髪になったり禿げたりするのです。損得勘定の目にからめとられるとは、つまり資本主義。

狩猟採集生活の特徴のひとつは平等分配です。何かもらってもお礼は言いません。「もらう肉は当たり前のようにもらえ。感謝は不要。いちいち礼を言いはじめたら負い目ができて主従関係が生まれるぞ。その代わり、明日自分が獲った肉をみんなに分け与えることになっても決して礼を求めるな。もらった肉とあげる肉の量を計算するな。すぐ忘れろよ」が基本。私はずいぶん狩猟採集民の写真や動画を見てきましたが、白髪や禿頭の人を見たことがありません。

栗原氏の思想と私のそれは重なります。栗原氏が一遍上人や大杉栄や伊藤野枝などのアナーキズム研究から、私が人類学から同じ思想にたどりついたのが面白い。いや、大杉栄の評論がマルクスら共産主義をベースにしていて、共産主義の考え方が原始共産制の研究から始まっていたのですから、不思議はないかな。