狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

状況に慣れてはいけない

*以下、旧統一教会と言うべきかもしれませんが、統一教会とします。

安倍氏の没後、はからずも、統一教会と自民党議員の問題が連日報じられているようです。私はテレビをほとんど見ないのでTwitterなど情報を得ています。NHKなどを除き、最初は及び腰だったテレビ局も連日報道している模様(テレ朝はトーンダウンかな)。ジャーナリスト・有田芳生はテレビや雑誌で活躍しているらしい。参院選に落ちてむしろ良かったかもしれません。カルト宗教と戦ってきた鈴木エイトもテレビに出ているそうで、応援しています。

反共産主義や、女性は家庭にいるべしなど、特定の価値観で折り合えば、自民党はどんな組織とも結びついてきました。

統一教会は霊感商法やマインドコントロールなどをおこなってきた問題のある団体ですが、安倍政権以降、献金や集票につながるならどんな宗教・どんな反社会的組織とも半ば公然と手を結びます。マルチ商法のジャパンライフの元会長が「桜を見る会」に紹介されたことを誇示して、さらなる被害を生み出しました。

「最後は金目でしょ」といった石原なんとかという自民議員がいました。その通り。正義も義理人情もない。資本主義というからには、金儲けが一番。国民の生活なんて知るもんか。自分の懐に入るゼゼコはなんぼや。利権くれ。山吹色のあのやつや。お主も悪よのう。

それにしても──

昨年9月、統一教会系「天宙平和連合」に送った安倍晋三元首相のビデオメッセージにはわが目を疑いました。コラ動画だろうと感じたくらいです。祖父・岸信介の時代から自民党と統一教会が結びついていたことは知っていましたが、あの動画は一線を越えたのではなかったか……。山上徹也容疑者も動画を見て統一教会と安倍氏の関係を確信したと報じられています。凶行は断じて許されないものの、動画が与えたインパクトは相当なものでした。

アメリカCIAによれば、統一教会設立にあたって韓国の情報機関KCIAが後ろ盾になったと言われています。自民政治家の公設秘書に統一教会信者がが何人(何十人?)もいると言いますから、日本の機密が韓国に流れているかもしれません。

ここ数日、開き直った政治家たちが「どんな団体か知らなかった」「支援していただいている団体の一つでしかない」などと発言して問題を矮小化してますが、ネット検索したらすぐに統一教会系の団体であるとわかるのに、無知ゆえに参加しましたって、それはそれで問題です。防衛大臣と公安のトップが統一教会とつながっているなんて、日本はどんな冗談国家なんだ?

統一教会ほか各種団体が自民党を操っているという人がいます。私は単に自民の多くの議員と価値観を共有しているだけだろうと考えています。各種団体が自民のために本気で活動していることもわかります。Win-Winであるために、あらゆる努力を惜しまないのです

日本は壊れています。法治国家ではなく人治国家であり、隠された独裁国家と言えるのでしょう。しかし、ここで大人ぶって「どの国も同じようなもんでしょ」とか、「昔からそうなんでしょ」なんて冷笑してはいけません。そうやって政治に消極的賛成をしてきた結果がこのザマなのです。前述のとおり、彼らは本気でやっています。

夏至から冬至まで……その2

6/26の投稿『夏至から冬至まで……その1』の続きです。

夏至(6/21)から走り、30日が経過しました。途中報告です。

★   ★   ★

私の身長は174.5cmくらい。マラソンの練習をしていたころは、夏は体重62.5kg、秋冬のレース時は60.0kgくらいでした。

新型コロナの流行でマスクして走ったり、ワクチン接種後に心拍数が高くなったりして、徐々にジョギングから遠ざかると、体重が増えてきました。「このままどんどん太れば、ヤバいと思ってまた走り始めるんじゃなかろうか」と、炭水化物多めにして69kgオーバーまで増やし、6/21から走り始めました。

走る距離1日5km!(苦笑) 1キロ7分くらいのゆるゆるペースです。

毎日走りたかったんですが、30日間に5日もサボってしまいました。走った距離はたったの133km。最長でも7.5kmです。毎月400km以上走っていた頃のことは忘れました。気になる体重は、66kg台に突入したかな、くらいです。

狩猟採集民ピダハン族と暮らしたダニエル・E・エヴェレットは、彼らをニューヨークに連れていくことがあったそうです。世界の狩猟採集生活は貯蓄とか貯蔵という観念が乏しく、その日暮らしなので、レストランに連れていくと、あるだけ食べようとします。結果、短期間のうちにぶくぶくに太るんですが、アマゾンに帰ると、すぐに元の体型に戻るとありました。……それを自分の身体で確かめている途中、と申しましょうか。

減量とともに走る負荷も軽くなるので、1回あたりの最低距離を6kmに増やします。冬至まであと5ヶ月。

33年前の自分を反省

歪んだコミュニケーション能力なんて……という私ですが

今年2月に、こんな記事を書きました。

正しい「コミュニケーション能力」というのはあるかもしれませんが、とくに若者から持て囃されるソレは、すぐさま消えゆく言葉をポンポンと繰り出す能力だろうと感じています。昨日の発言と明日の発言が矛盾していてもかまわないし、論理などおかまいなしです。流行はそうであっても、私はそんな風潮に与したくないと考えているのですが……数日前、このツイートを見てハッとしました。本投稿は懺悔です。

 

就職活動の話

1989年の話。まだぎりぎりバブルで「売り手市場」と言われた頃に就職活動をしました。大学院に行きたい気持ちもありましたが、ある業種の5、6社だけは受けようと思ったのです。

ちょうど、大学4年の夏は文学理論やポストモダンの本を読んだり議論をしているうちに隘路に嵌まっていた時期でした。絶対的なものを相対化したところに新たな権威が生まれ、それを相対化したところに新たな……という作業をしているうちに、たしかな価値観などなく「世の中はゲームにすぎない」という気分になっていました。ちょうどゼミの先生とも折り合いが悪い時期で、学問とは違う世界の空気を吸いたくもあったのです。

一番最初に受けた会社では、履歴書を提出したときに予備面接がありました。「大学でいちばん取り組んだものはなんですか」と問われ、堂々と「文学研究です」と答えました。バイトしたり飲んだり遊んだりもしましたが、嘘ではありません。結果は……不合格でした。履歴書を提出したついでの5分ほど予備面接で落とされるとは想像してなかったので驚きました。

学問なんて社会ではどうでもいいんだろう……と、私は戦略を変えました。面接では、徹底的に面接官を笑わせることにし、想定される質問を考えては、ウケそうなギャグを練りました。どうせゲームだもの。

「朝まで生テレビ!」とディベートと論破

ちょっと脱線して、時代について考えてみましょう。1987年に「朝まで生テレビ!」が始まり、学生の間でもよく話題になりました。西部進、宮崎哲弥、野坂昭如、舛添要一、猪瀬直樹ら言論人が興奮して討論し、視聴率が落ちそうな時間帯に大島渚がなにごとかをワーッと叫ぶのです。何時間話しても結論めいたものは出ません。その場限りの放談でした。出演者は電波芸者と揶揄されはじめます。

「ディベート」なる討論が始まったのもこのころです。私が最初にディベートを知ったのはやはりテレビでした。司会は栗本慎一郎と記憶します。10人以上いた学生をくじ引きで「原発賛成派」と「原発反対派」の2グループに分けたうえで、それぞれの立場の正当性を主張させ、優劣を決めていました。自分が原発反対派に振り分けられたらどうしようとモヤモヤしたのを覚えています。

ディベートが思考訓練であるのは理解しているのです。逆の立場でものを考えてみることは大事なことでしょう。しかし、多様な意見を持ち寄り合意点を見つけるのが民主的対話なら、ポジショントークで勝敗を決めるのゲームの域を出ません。ディベートとともに「論破」という言葉が増殖します(Amazonや国会図書館デジタルで単語検索すると「論破」が1990年代から増えるのがわかります)。テレビや、のちにネットでの意見対立は合意点を見つけることではなく、雌雄を決するものになっちゃいました。子供のころは、そういうのを口喧嘩と呼んでいた記憶があるのですが……。

2000年代に、安倍晋三政権において閣僚や官僚の詭弁や嘘や論点ずらしが横行し、熟議を経ず強行採決が増えたのも、これらの延長線上にあるのかもしれません。

ともかく、1980年代後半から1990年代あたりが、今に続くコミュニケーション能力重視の始まりではなかったと考えているのです。当時の私が「世の中はゲームにすぎない」という陰鬱な気分に陥ったのは、社会の風潮も影響していたかもしれません。

自分の軽口、反省します

就職活動の話に戻ります。

ある会社では、5人同時の面接で、「消費税をどう思うか」と問われました。私は今ほど政治に関心があったわけではありません。消費税は応能負担ではないと認識していましたが、一方で、「子供に1円玉持たせるのか」という紋切り型の批判を嫌悪していました。幼稚で、感情的ではありませんか。一緒に面接を受けたほかの4人は、口を揃えて「消費税に反対です。1円玉が増えるからです」と言いました。最後に回ってきた私は「消費税には賛成します。必要な税金なら徴収せざるをえません。1円玉が増えるのがイヤなら、10%にすればいい」と逆張りしました。本当は消費税反対なのに1円玉論法に反撥して、ついそう口走ったのです。面接官はアハハと笑いました。(帰りながら、消費税10パーセントでも1円玉がなくならないことに気づいて冷や汗を搔きましたけど)

別の会社では、やはり複数人の面接で、頭の回転を試されるような質問ばかりされました。「松田聖子と中森明菜のどちらが好きか」とか、どうでもいい質問です。「どんなタイプの異性が嫌いか」と訊かれ、みんなが真面目に答えるなか、「使い終わったサランラップを洗ってもう1度使う女です」と答えたら、面接官が椅子からずり落ちそうになるほど身をよじらせて笑いました。ある同級生(男ですが)はケチで、ラップを洗って再利用していると噂されていたのが、ふと頭に浮かんだのです。

売り手市場だったこともあるのでしょう、その後は、面接も筆記試験も1度も落ちることなく、最初に内定が出た会社に入社することになりました。

現在の自分は、与太よりも、たしかな知性を大事にしたいんですが、就職活動でおチャラけていた私はまさしく「すぐさま消えゆく言葉をポンポンと繰り出」していたのです。反省しています。

最後に2022年の私からひとこと。「消費税廃止!」

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』感想2


國分氏によるルソー『人間不平等起源論』の解釈

『暇と退屈の倫理学』の「第四章 暇と退屈の疎外論」で気になるところがあったので、メモしておきます。ルソー『人間不平等起源論』についてのことです。(引用内の傍点部分は太字)

──(略)自然状態とは一七世紀頃から盛んに論じられるようになった概念である。それを論じながら哲学者たちは、人間たちが自然の状態、つまり、政府や法などが何もない状態ではどのように生きるのかについて考えた」(『暇と退屈の倫理学』196p)

──ルソーの思想はしばしば「自然に帰れ」というスローガンで紹介されることがあるが、この言葉がルソーの著作のどこにも見いだされないのはよく知られた事実である。(『同』207p)

ここまではいいのです。たしかに、ルソーは「自然に帰れ」と書いていません。異和感を覚えたのは以下の記述です。

《そして何よりも重要なことは、ルソーが自然状態について、「もはや存在せず、おそらくはすこしも存在したことのない、多分将来もけっして存在しないような状態」と述べていることである。ルソーは自然状態を、かつて人間がいた状態や戻っていける状態として書いているのでもないしこれからたどり着ける状態として描いているのでもない。》(『同』207p)

《「自然に帰れ」とルソーが一度も述べていない言葉がルソーのものとされてきた歴史は、ルソーの描く善良な自然人の姿が、本来の人間の姿であるかのように解釈されてきたことの証拠に他ならない》(『同』208p)

そう断じたうえで、國分氏は第四章の核心「本来性なき疎外」へと論理を展開しますが……。あれれ、ルソーが描出した自然状態の野生人は、フィクションかファンタジーなんでしたっけ。

のちに詳述しますが、ルソーはちゃんと《その[=野生人の]真の姿を示すことを目的とする》と書いています。だから、ファンタジーとしての野生人ではなく、明確に《かつて人間がいた状態》を解明しようとしているはずです。

『人間不平等起源論』の本文を読む

きちんと読み直してみましょう。國分氏が引用したのは光文社古典新訳文庫版『人間不平等起源論』(中山元・訳)の「序」です。「人間の自然状態」を語り出すまえのイントロダクションと言えましょう。以下、長いけど、引用します。

(略)これほど見分けるのが困難に思える問題[=人間の自然状態を解明すること]を、わたしが解決したなどとは考えないでいただきたい。わたしは最初にいくつかの推論をあえて行い、いくつかの推測を示したが、それは問題を解決するためというよりも、問題点を明確にし、その真の姿を示すことを目的とするものである。同じ道を楽々ともっと遠くまで進める人もいるだろうが、最終的に解決できる人はいないだろう。人間の実際の本性において原初的に存在していたものと、人為によって生まれたものを区別するのは容易な業ではない。そしてもはや存在していない状態、おそらく存在したことのなかった状態、きっと今後も決して存在することのない状態を見分けるのも、容易なことではないのである。しかも人間の現在の状態を正しく判断するには、こうした状態についての正しい見方が必要なのだ。
 この主題についてしっかり観察するためにどのような配慮が必要とされるかを正確に定めようとすると、予想を超えるほどの哲学の素養が求められるだろう。そして「自然のままの人間について知るためには、どのような実験が必要とされるか、社会のなかでこのような実験を行うには、どのような手段が利用できるか」という問題を適切な形で解決するのは、わたしたちの時代のアリストテレスやプリニウスのような人物にこそ、ふさわしいのである。(『人間不平等起源論』「序」36p)

大航海時代に得られた厖大な民族誌には、定住も農耕もしていない、太古の生活を続けていたと覚しき人の見聞がたくさんありました。しかし、彼らの生活に入り込み、言葉を覚えてあらゆることを記録するような人類学的アプローチをしたわけではなく、先入観や偏見も含まれます。たとえば、コンゴ王国に赴いた《何人かの旅行家》が《人間の女と猿の雄のあいだに生まれた子供ではないかと考えた》動物がいる(『同』231p)といった話も含まれていたのです。ガセネタがまじった多くの情報から、野生人(オム・ソヴァージュ)もしくは自然人(オム・ナチュレル)の生活様式や考え方を類推するのは困難を極めたでしょう。だからこそルソーは、

 ①もはや存在していない状態
 ②おそらく存在したことのなかった状態
 ③きっと今後も決して存在することのない状態

などをきちんと弁別する作業は難しい、と述べているのです。つまり、人間は自然状態では平等で自由に暮らしていたようだゾ。どうやら自然状態の人間は健康そうだゾ。動物と人間の雑種はいなかったし、きっとこれからもないだろうナ──といったふうに、もともとの人間や人間生活を推理したわけです。

「序」は、あくまで前置きでしかありません。

自然状態の野生人を探ることは自分には手にあまるけど、あえて難しい作業をするよ、とルソーは「序」で述べたのち、第一部以降、かつて実在したと類推した人間について語りはじめます。現在の人類学からするとおかしなところもありますが、単独で困難な研究を始めたのですから、やむを得ません。

頭のいい哲学者にこんなことを言うのは気が引けますが、國分氏は誤読したのではないかなあ。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』感想1

書店で、新潮文庫の平台に國分功一郎『暇と退屈の倫理学』があるのを見つけました。國分氏は『中動態の世界』などの著書がある哲学者ですが、平凡社ライブラリーならまだしも、新潮文庫に入る著者とは思えないなあ……と思いながら手に取り、立ち読みすると、西田正規やルソーの名前も出て来ます。即購入した次第です。

國分氏は、多くの哲学者が考察してきた人間の本性や、退屈に対する考察を引きながら、人間らしく生きるのはどういうことか、を論じた1冊でした。知的冒険を味わえる内容です。新潮社のサイトによれば、コロナで「退屈」を感じた人に読まれているらしい。私は、自宅仕事なので、コロナで月1、2度の飲み会がなくなったくらいで急に退屈したりしませんけど。

数百万年ものあいだ遊動生活をしていた人間は、約1万年前、地球の中緯度帯で定住を始めることになります。それにより、さまざまな生活習慣の変化が起きます。遊動生活でフル活用していた脳の負荷が下がり(定住以降、人間の脳は少し容量が小さくなったと言われます)、退屈が生じたのもそのひとつ。

脳は宗教や社会を体系化するために使われ、文明が発達しましたが、それがよかったかどうかわかりません。

本書のクライマックスは、ハイデッガーがおこなった退屈の分析を、ユクスキュルの「環世界」という概念で相対化するところです。電車で移動しながら読んでいたのですが、途中下車し、大きな書店をハシゴして、ユクスキュル『生物から見た世界』(岩波文庫)を買っちゃいました。

たいへん勉強になりましたが──しかし──ひとつだけ気になることがあります。それは次の投稿で。

参議院選の感想

日曜日に衆議院選挙が開票されました。与党が勝利。「予想通りで、とくにショックはありません」と感じてしまう自分がイヤ。

野党が負けたとはいえ、山添拓、辻元清美、小西洋之、山本太郎、水道橋博士、伊波洋一、福島瑞穂といった候補が国会に届けられたことはありがたいことです。

しかし……お笑い番組を見るように質疑を眺めている国会ウォッチャーの私は、白眞勲、有田芳生、森裕子、辰巳孝太郎、大門実紀史といった優秀な「国会芸人」が落選したことに落ちこんでいます。いちおう野党を名乗る維新に、松野明美や中条きよしらが当選しましたが、彼ら新人国会芸人が上記の人たちより鋭い質問をすると思えないのです。

白井聡が近著で、「2012年体制」と書いています。この10年、いろんなものが徹底的に破壊されてきました。

政治家が国会で平然と嘘をつき、官僚は政治家を守るために公文書を改竄したり廃棄するようになりました。アベノミクスの効果を底上げするために基幹統計をごまかし、もはや客観的な数字がわからなくなっています。

テレビは「ニッポンすごい」と自画自賛。ワイドショーでは、橋下徹のような人間拡声器が矛盾だらけの自説をガーガーわめき、それなりに視聴率を取っているらしい。頭のいい東大生がタレントになり、クイズを解いて尊敬されています。なぜか「統一教会」の一言が言えず、「特定の宗教団体」と口走る。

天と地がひっくり返っています。

巷には歴史改竄する言説やヘイトスピーチが溢れています。司法も機能しません。大阪地裁は、同性婚を「子を産み育てる男女」でないからという理由で却下。東京地裁は、性風俗業へのコロナ給付金不支給を「大体数の国民の道徳意識に反する」商売として肯定しました。

もしかすると、すでにポイント・オブ・ノーリターンを踏み越えてしまったのではないか。すでに全体主義へまっしぐらではないか、とそんな怖いことを考えてしまいます。

故・橋本治は、韓国の朴槿恵大統領が、友人の崔順実の言いなりになっていたという報道を見て、《「後宮の女官が皇帝を意のままに操った」という種類の事件と同種》であると書いています。(橋本『思いつきで世界は進む』ちくま新書、195ページ)

同様に、日本はまだ江戸時代と同じく、世襲的な封建制社会なのです。ご主人さまが上にいて、そのまた上にご主人さまがいて、そのまたうえに……という具合。故・安倍晋三元首相も薩長政権の三代目。強いアメリカにペコペコし、弱いと思う国には威張っていました。

日本の有権者は「主権者」であることを忘れ、積極的に従者となり、世襲の庄屋さまや殿様にお仕えしているようです。そう考えると選挙の結果も予想できたわけです。当たらなくてもよい予想でしたが……。このままいくとどうなるのか。

テロと民主主義

2022年7月8日午前11時半ごろ、奈良市・大和西大寺駅近くで応援演説していた安倍晋三元首相が銃で撃たれたと報じられました。ニュースを聞いて最初に感じたことは「司法が機能していればこんなことにならなかったのに……」でした。

暴力による言論封殺は絶対に許されません。私は政治家としての安倍氏を評価しませんが、だからといって暴力が肯定されるはずがありません。これを書いている14時45分現在、安倍氏は心肺停止と言われています。回復を願っております。

テロ行為は民主主義の否定です。Twitter などを見ると、野党のリーダーが「暴力による言論封殺は許されない」という言葉が溢れています。私も同意見です。たった今、岸田文雄首相が記者会見をし、同様のことを発言しました。

しかし──とも思うのです。ここ10年ほどのあいだ、民主主義は破壊されつづけ、暴力による言論封殺が起きていたのではなかったか。

  • 憲法違反といえる重要法案を、熟議抜きに、強行採決で通した。
  • 国会で平然とウソをつき、時間を空費した。論理的に質問する野党を冷笑した。
  • 政府は学問や知性や科学をバカにしてきた。
  • とくに日本学術会議の任命拒否問題では、きちんとした説明もなく、政府批判をする学者を排除した。
  • 野党に要請されても臨時国会を開かなかった。
  • 官邸に反対する官僚を飛ばした。
  • 安倍氏に近しい人たちは逮捕状が出ていてさえ、逮捕されなかった。
  • 与党政治家は女性差別やLGBTQ差別を繰り返した。批判されたら「誤解を招いたとしたら申し訳ない」と、相手が誤解したような弁解をした。
  • 都合の悪い公文書は破棄したり改竄した。
  • 諸問題の第三者委員会がお手盛りの結論を出した。
  • 三権分立が機能しなかった。検察は与党の諸問題を追及せず、裁判所は政府に都合のいい判決を出した。
  • 自民党の応援演説に野次を飛ばした人を排除した。

思いつくまま挙げましたが、私は、そういったことごとも暴力による言論封殺で、民主主義への裏切りだと思うのです。それらの問題に対し、メディアや多くの人々は「絶対に許されない」と声を上げてきたでしょうか。先日、「野党の話を政府は聞かない」と山際大志郎大臣が発言したそうです。野党に投票した有権者を切り捨てる反民主主義的な考え方ではありませんか。すでに民主主義は壊れているのではないか……。

いやいや、いくらしんどくても、われわれは力に拠ることなく、あくまで話し合うべきです。今回の事件で国民に対する監視が強化され、自由が一層制限されるかもしれません。なにかと暗澹たる気分になってしまいます。

あらためて、安倍氏の回復を願っております。

【追記】=夕方、安倍晋三元首相の訃報が流れました。ご冥福をお祈りします。