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國分功一郎『暇と退屈の倫理学』感想2


國分氏によるルソー『人間不平等起源論』の解釈

『暇と退屈の倫理学』の「第四章 暇と退屈の疎外論」で気になるところがあったので、メモしておきます。ルソー『人間不平等起源論』についてのことです。(引用内の傍点部分は太字)

──(略)自然状態とは一七世紀頃から盛んに論じられるようになった概念である。それを論じながら哲学者たちは、人間たちが自然の状態、つまり、政府や法などが何もない状態ではどのように生きるのかについて考えた」(『暇と退屈の倫理学』196p)

──ルソーの思想はしばしば「自然に帰れ」というスローガンで紹介されることがあるが、この言葉がルソーの著作のどこにも見いだされないのはよく知られた事実である。(『同』207p)

ここまではいいのです。たしかに、ルソーは「自然に帰れ」と書いていません。異和感を覚えたのは以下の記述です。

《そして何よりも重要なことは、ルソーが自然状態について、「もはや存在せず、おそらくはすこしも存在したことのない、多分将来もけっして存在しないような状態」と述べていることである。ルソーは自然状態を、かつて人間がいた状態や戻っていける状態として書いているのでもないしこれからたどり着ける状態として描いているのでもない。》(『同』207p)

《「自然に帰れ」とルソーが一度も述べていない言葉がルソーのものとされてきた歴史は、ルソーの描く善良な自然人の姿が、本来の人間の姿であるかのように解釈されてきたことの証拠に他ならない》(『同』208p)

そう断じたうえで、國分氏は第四章の核心「本来性なき疎外」へと論理を展開しますが……。あれれ、ルソーが描出した自然状態の野生人は、フィクションかファンタジーなんでしたっけ。

のちに詳述しますが、ルソーはちゃんと《その[=野生人の]真の姿を示すことを目的とする》と書いています。だから、ファンタジーとしての野生人ではなく、明確に《かつて人間がいた状態》を解明しようとしているはずです。

『人間不平等起源論』の本文を読む

きちんと読み直してみましょう。國分氏が引用したのは光文社古典新訳文庫版『人間不平等起源論』(中山元・訳)の「序」です。「人間の自然状態」を語り出すまえのイントロダクションと言えましょう。以下、長いけど、引用します。

(略)これほど見分けるのが困難に思える問題[=人間の自然状態を解明すること]を、わたしが解決したなどとは考えないでいただきたい。わたしは最初にいくつかの推論をあえて行い、いくつかの推測を示したが、それは問題を解決するためというよりも、問題点を明確にし、その真の姿を示すことを目的とするものである。同じ道を楽々ともっと遠くまで進める人もいるだろうが、最終的に解決できる人はいないだろう。人間の実際の本性において原初的に存在していたものと、人為によって生まれたものを区別するのは容易な業ではない。そしてもはや存在していない状態、おそらく存在したことのなかった状態、きっと今後も決して存在することのない状態を見分けるのも、容易なことではないのである。しかも人間の現在の状態を正しく判断するには、こうした状態についての正しい見方が必要なのだ。
 この主題についてしっかり観察するためにどのような配慮が必要とされるかを正確に定めようとすると、予想を超えるほどの哲学の素養が求められるだろう。そして「自然のままの人間について知るためには、どのような実験が必要とされるか、社会のなかでこのような実験を行うには、どのような手段が利用できるか」という問題を適切な形で解決するのは、わたしたちの時代のアリストテレスやプリニウスのような人物にこそ、ふさわしいのである。(『人間不平等起源論』「序」36p)

大航海時代に得られた厖大な民族誌には、定住も農耕もしていない、太古の生活を続けていたと覚しき人の見聞がたくさんありました。しかし、彼らの生活に入り込み、言葉を覚えてあらゆることを記録するような人類学的アプローチをしたわけではなく、先入観や偏見も含まれます。たとえば、コンゴ王国に赴いた《何人かの旅行家》が《人間の女と猿の雄のあいだに生まれた子供ではないかと考えた》動物がいる(『同』231p)といった話も含まれていたのです。ガセネタがまじった多くの情報から、野生人(オム・ソヴァージュ)もしくは自然人(オム・ナチュレル)の生活様式や考え方を類推するのは困難を極めたでしょう。だからこそルソーは、

 ①もはや存在していない状態
 ②おそらく存在したことのなかった状態
 ③きっと今後も決して存在することのない状態

などをきちんと弁別する作業は難しい、と述べているのです。つまり、人間は自然状態では平等で自由に暮らしていたようだゾ。どうやら自然状態の人間は健康そうだゾ。動物と人間の雑種はいなかったし、きっとこれからもないだろうナ──といったふうに、もともとの人間や人間生活を推理したわけです。

「序」は、あくまで前置きでしかありません。

自然状態の野生人を探ることは自分には手にあまるけど、あえて難しい作業をするよ、とルソーは「序」で述べたのち、第一部以降、かつて実在したと類推した人間について語りはじめます。現在の人類学からするとおかしなところもありますが、単独で困難な研究を始めたのですから、やむを得ません。

頭のいい哲学者にこんなことを言うのは気が引けますが、國分氏は誤読したのではないかなあ。