狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

映画『森のムラブリ』

いつか見たいと思っていた金子遊監督のドキュメント『森のムラブリ』が、Vimeoにアップされていたのでした。

ムラブリは昨年『東南アジア狩猟採集民の生活と子どもの発育発達』展で知りました。

かつてはタイの山岳地帯に暮らし、木の枝と大きな葉でつくる、雨だけはしのげそうな簡易なテント(映画では「クンラオ」と呼んでいます)に住んで移動する狩猟採集民でした。慎重な人々で近寄ってみるとクンラオは残っているけど、誰もいなかった──なんてことがあったそうです。近年、政府により定住化されています。

映画は、ムラブリ語を研究する伊藤雄馬さんとスタッフが、1990年代に定住をはじめたムラブリに昔話を聞くところから始まります。現在、400人いるそうです。正直少し退屈しましたが、村の年寄りにかつての生活を再現してもらうところから徐々に面白くなってきました。

このおじいちゃん、脱いだら筋肉隆々でした。

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後半は、タイのムラブリが怖れるマカオのムラブリを「発見」します。撮影するのは世界初だそうです。村との交易により米を得てシャツを着ていますが、彼らはノマド的狩猟採集生活を続けていました。

ムラブリは網猟で川魚を捕り、塩焼きにしていました。主に食べているのは掘り出したイモみたいです。マカオのムラブリは直火で焼いたあとのイモを竹に押し込んで、さらに蒸し焼きにしていました。タイの高齢のムラブリは、かつては鹿、亀、穴熊、熊、猪も食べたと言っています。現在、彼らは市場で加工品や肉を手に入れていましたが……。

映画『サーミの血』

サーミの血(字幕版)

サーミの血(字幕版)

  • 発売日: 2018/06/06
  • メディア: Prime Video
 

映画『サーミの血』(2016年/スウェーデン、ノルウェー、デンマーク)を観ました。監督:アマンダ・シェーネル/出演:レーネ=セシリア・スパルロク、ミーア=エリーカ・スパルロク、マイ=ドリス・リンピ、ユリウス・フレイシャンデル。1930年代、スウェーデンの先住民族サーミの子供として育った姉妹の話です。主に姉の視点で描かれます。

サーミ人は北欧ラップランドで狩猟やトナカイ遊牧をしながら暮らしていました(狩猟採集民ではなく遊牧民です。念のため)。キリスト教国家に組み込まれ、迫害されてきた歴史を持ちます。

映画は、現在、都会に暮らすサーミ人の老女エレ・マリャが妹ニェンナの葬式に、息子や孫と向かうところから始まります。なぜ彼女は行くのを渋ったりサーミの伝統文化を嫌うのか? なぜ彼女が教会に入ったとき参列者が振り向き、彼女をじっと見つめるのか? 彼女の左耳に残る傷はなにを象徴するのか?──それらのナゾは、マリャの回想とともに明らかになります。

いろいろと考えさせられる映画です。途中、北大のアイヌ人骨事件や内国勧業博覧会(万博)での人類館事件を想起してしまい、グッタリしました。人類学という学問はかつて非人道的な手法で研究をしていたのです。

伝統民謡(?)ヨイクについて調べてみよう。

映画『フェド・アップ』

『あまくない砂糖の話』を観たついでに、気になっていた『フェド・アップ』(2014米)も観賞しました。監督 Stephanie Soechtig。タイトルは「うんざり」という意味らしい。アメリカの小児肥満を扱ったドキュメント映画です。食品産業や政府のカラクリがあるのはおおむね承知していることで驚きませんけど、太った子どもが「瘦せられない」と涙を流すのを見るのはつらい。彼らが太るのは怠惰で運動不足だからではなく、社会が正しい情報を隠しているからなのです。

…………以下、ネタバレかも。ご注意を…………

1980年にはゼロだった十代の糖尿病患者が、30年後にはたくさんいて問題になっているそうです。心臓病で死ぬ子もいるとか。いまや子供の5人に1人が肥満なんだそうです。

「瘦せるには摂取カロリーより消費カロリーを増やすこと」と、さんざん聞きました。しかし肥満の主たる原因は糖質です。とくにアメリカ人は砂糖を摂りすぎます。砂糖が脂肪に変わる仕組みはググってくださいませ(最近は糖質を摂ったさい膵臓から分泌されるホルモン・インスリンそのものが肥満の原因だという人もいます)。ビリー隊長より糖質制限のライザップ。

この映画にも、肥満と砂糖の関連を指摘する専門家はたくさん登場します。でも、その情報が米国中になかなか共有されてません。1970年代後半から砂糖業界が猛烈なロビー活動をして、肥満の原因は高脂質や高カロリーや運動不足のせいだとミスリードしてきたからです。

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砂糖には中毒性があります。食品加工業界はテレビコマーシャルなどで甘い加工食品を子供に売ろうとしてきました。砂糖中毒にしておけば永続的に業界が潤うからです。

[追記=たまたまNHK-BSで『がんばれ!ベアーズ』(1976米)をやっていたので最後の30分を観たんです。大人と子供の関係が興味深い映画ですけど、ケンタッキー、マクドナルド、ピザハット、デニーズがあからさまに出てきて、『フェド・アップ』を観たあとだけに胸焼けしそうでした。ベアーズの監督(ウォルター・マッソー)はバドワイザーやクワーズを飲んでいる。全部アドバタイジング。企業が映画に出資しています。NHKで広告やっているようなものです]

80年代、レーガンが給食費を削ったのに合わせ、ジャンクフード業界が学校に入り込みました。小学校の食堂にコーラの自販機を設置し、ランチにマクドナルドやピザハットなどのジャンクフードを提供するようになりました。80年代から砂糖の消費量は倍に増えたそうです。ミシェル・オバマが改革しようと試みましたが挫折しました。

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いまも悪者は「カロリー」とされ、スーパーには「ローファット◎◎」や「ダイエット◎◎」がたくさん並んでいますが、食品の8割には砂糖がたっぷり入っています。それなのに小児肥満の子は「運動不足だ。カロリー過多だ」と瘦せないのは自分の責任だと思い込まされ、糖尿病や心臓病の恐怖に怯えています。

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アメリカの肥満問題も新自由主義による資本主義暴走のなれの果てなんですね。ひとの健康まで搾取して儲ける奴がいるんです。映画の最後は少し希望のもてる終わり方……だったかな。

★    ★    ★

何度か同じこと書いていますが、「虫歯になる」という一点だけ取っても、砂糖は人間に合わないことがわかります。熱したデンプンも同じです。何百万年の人間の歴史からすれば、穀物を食べ始めたのはつい最近。砂糖を摂りはじめたのはごくごく最近のことです。

映画『あまくない砂糖の話』

私は甘いものが苦手で、うちに砂糖を置いていません。料理が得意な妻は、さまざまな店に行って自宅で味を再現させるのが趣味でしたが、結婚後、とくに砂糖をたくさん使うアジア料理を受けつけなくなりました。私のせいで味覚が変わったと文句を言いますが、「じゃあ、砂糖のある生活に戻りたい?」と訊ねると、「戻れない」と言います。彼女はときどきデザートを食べています。

私の場合、親が甘いものを食べなかった(子どもの誕生日などで両親はケーキを食べなかったなあ)ので、大人ってそんなものだと思っていました。大人になるとビールを飲みましたが、タバコをやめるとビールも甘く感じられました。男女に限らず、同世代の友人がFBやInstagramに甘いデザートの写真をアップしていると、いまだに驚きます。

しかし、何百万年も続いてきた狩猟採集生活には砂糖なんてなかったんですよね。甘い食べ物はたまに獲れる蜂蜜くらいです。果物も根菜も、品種改良していないので今ほど甘くはありません。──とそれに気づいてから、砂糖なし(私の場合、穀物も少なめ)の生活に確信を持ちました。

★    ★    ★

昨晩Amazon プライムビデオで『あまくない砂糖の話』(2014豪)を見ました。

白砂糖を大量に食べたらどうなるか──監督デイモン・ガモーみずからが人体実験する映画です。ドキュメンタリーですが、CGを使うなど、見せ方にいろんな工夫が凝らしてありました。私は、ユーモラスなエンタテインメントに感じましたが、別の人にとっては苦痛かもしれません。

砂糖の成分はショ糖(スクロース)と呼ばれ、ブドウ糖と果糖からなり……と、このへんのことは映画かWikipediaでご確認ください。さて、ふだん砂糖を摂らない生活をしている男性デイモンが、一般のオーストラリア人が摂取する1日スプーン40杯(160g)分の砂糖を、60日間にわたって摂ることにします。ジャンクフードやお菓子を食べなくてもいいんです。スーパーマーケットにある「健康的」といわれる加工品(低脂肪ヨーグルト、シリアル、果物ジュースなど)で充分それだけ摂れますから。

彼は体調の変化を感じながら、肥満大国アメリカに渡り取材しています。企業が最適な甘さ(至福点)の研究をして開発した商品を売り、コマーシャルで子どもの心をつかんでしまえば、砂糖中毒のできあがり。食品企業はずっと儲かります。研究機関に金を出して、不健康の犯人が「脂肪」や「カロリー」であるという論文を発表してもらえばいいのです。

結果、デイモン・ガモーは躁鬱に悩まされ、どんどん太りました。躁鬱に悩まされ、さまざまな数値が悪化。摂取カロリーは以前と変わらなかったそうです。

オーストラリアの先住民アボリジニの現状が悲しい。狩猟採集をしていたころは病気がなかったのに、スーパーで食事を買うようになってからさまざまな病気に見舞われているそうです。

「精製された砂糖は極力控えましょう」という、たったそれだけのことを啓蒙するだけで事態は大きく改善するはずなのに、巨大な食品産業が人々を砂糖中毒にし、健康を蝕みながら膨れ上がっています。資本主義社会が労働力のみならず人の健康まで搾取しているのだと気づかされます。

唐突ですが、世界地図や歴史を鳥瞰しながら書かれた川北稔『砂糖の歴史』(岩波ジュニア新書)はおすすめです。

アメリカの子どもたちは……この話は次回また。

あまくない砂糖の話(字幕版)

あまくない砂糖の話(字幕版)

  • 発売日: 2016/10/20
  • メディア: Prime Video
 
砂糖の世界史 (岩波ジュニア新書)

砂糖の世界史 (岩波ジュニア新書)

  • 作者:川北 稔
  • 発売日: 1996/07/22
  • メディア: 新書
 

近況

仕事が詰まっていたのと体調不良と雨などでしばらく走っていません。例年、10月上旬と2月上旬に風邪を引きがちなんです。少し前「体調が悪くなりそう」という前兆を感じ、とくに今年は風邪を引けないので自重しました……。積ン読から教育関係の新書をあれこれ引っ張って読んでいます。教育関係者でもないくせに気になって買い込んでしまうんですよね。

先々週の金曜日、ある仕事で撮影の立ち合いに行きました。電話とメールでできる仕事ではあるので、仕事仲間と会うのは半年ぶりです。少人数で、戸外と室内を往き来して2時間くらいの撮影でしたが、誰も手も洗わないし、マスクもしないし、「へえ、仕事現場ってこんな感じなのか」と驚きました。その意味もあっての自主自粛でもありました。そろそろ走り始めます。

その間、仕事に疲れた深夜に30分ほど散歩していました。1日1回くらいは外の空気を吸いたいしね。いちおうマスクはしています。コンビニに寄ることもありました。

こないだ雑誌を1冊買って小銭を払いました。

「◎◎円のお釣りとレシートのお返しです」

と言われたんです。このセリフ、いつも違和感を覚えるんですよね。

お釣りは、定価より多く預けたぶんが返ってくるわけですから、「店が客に返す」ものなのでしょう。しかし、レシートは「店が客に返す」ものではありません。私はそう言われたら、反射的にこう言いたくなるんですよ。

「君にレシートを貸した覚えはない」

そのセリフをグッと抑えて、自分はなんて理屈っぽいんだろうと反省しながら家路につくのでありました。キャッシュレス決済にするしかないかな。

……と、くだらないことを書いてしまいました。

日本学術会議の問題

自分へのメモとしても日本学術会議のことについて書きます。興味のない方はスルーを。

論点は一つだけ

コロナ対策などとともに、いま興味があるのは日本学術会議の任命拒否の問題です。日々追っかけています。

この件、論点は一つだけです。

日本学術会議が推薦した会員6人を菅政権が任命拒否したことに法的根拠はあるか?

いたってシンプルではありませんか。

戦後発足した日本の国立アカデミー「日本学術会議」は、学者たちが候補者を選任し、そのときの総理大臣が形式的に任命してきました。ところが、菅義偉首相は今回提示された105人のリストのうち6人を任命拒否したのです。これは憲法15条や23条、日本学術会議法などに抵触しているのではないか。そうでないのなら法的根拠を示し、なぜこの6人が外されたのかを説明すべし。──具体的に書けばそういうことです。単純明快。

先週の野党議員(維新を除く)の衆参内閣委員会での追及も野党合同ヒアリングでも、おそらくテレビニュースや新聞記事(産経は違うかな)の論点も上記一点だけです。過去の国会でのやりとりを掘り出して法律の解釈を確認し、任命拒否の不当性を訴えているのです。一方、官僚は明確なプロセスも提示しませんし、法的根拠も示しません。「もともと首相に任命拒否権があった」と無理な主張をするのですが、その法解釈を裏づける文書は「見当たりません」と歯切れが悪い。

客観的に見て、旗色が悪いのは政権サイドです。

 

↑↑↑ 以上。ここから先は雑感です。↓↓↓

菅義偉総理大臣が迷走中

今回、任命を拒否された学者の共通点は特定秘密保護法や安保関連法案、共謀罪など、憲法に抵触するような法案に反対していた人たちです。外された理由はそれだとみんな察していますが、菅首相も加藤勝信官房長官も官僚も、さすがに口が裂けても認められません。6人を任命しなかった理由について訊かれると「個別の人事に関することについてコメントは控えたい」と繰り返すばかりです。

菅氏は「推薦された方をそのまま任命してきた前例を踏襲してよいのか考えてきた」(2020/10/5)と発言。前例を踏襲するもなにも法律上そうするしかないんですが……。

その後の菅氏は「総合的・俯瞰的な観点に立って判断した」と唱えるオウムになっていました。10/9のグループインタビュー(なぜ通常の記者会見を開かないのか)では「日本学術会議の会員はみずからの専門分野の枠にとらわれない俯瞰的な視点を持って社会的な課題に向き合うことができる人物が望ましい」と言ったそうです。俯瞰的、多過ぎ。

菅氏は挙げ句の果てに「推薦段階105人全員のリストは見ていていません」(10/9)と強烈な足カックンを喰らわせました。「総合的・俯瞰的な観点に立って判断した」わけじゃなかったの?? とすれば誰かが勝手に推薦リストから6人を削った、すなわち公文書を偽造した人物がいるのか? ……あっちでゴツン、こっちでガツン。その場しのぎがひどすぎます。案の定、加藤官房長官が今週初めから発言の修正を始めています。

問題を複雑化させているのは誰か

論点は一つだけなのに、任命拒否に関して、TwitterやFacebookなどのSNSで、妙な論法を持ち出す人がたくさんいます。学問の自由を持ち出すのは違うとか、日本学術会議の内実が不透明だとか、年間10億円も税金が拠出されるのかおかしいとか、民間にしろとか、中国の軍事研究に加担しているとか、年金がもらえる利権団体だとか、……論点ずらしや、明らかなデマまで見かけるのです。

シンプルな問題を複雑化させるこれらのノイズ拡散の片棒をかついでいるのはテレビのワイドショーらしい。橋下徹、辛坊治郎、平井文夫、立川志らく(敬称略)らの発言が、テレビを観ない私にも伝わってきます。

探して見てみた朝のワイドショーの動画では、立命館大学教授・松宮>孝明(任命拒否された1人)と橋下徹が議論していました。日本学術会議法などを持ち出して話す松宮氏に向かって、「ぼかあね、日本学術会議はこうすべき、政府もああすべきなんですよ」と言うんですが、架空の自分ルール持ち出したらダメじゃん。同番組では志らくが「日本学術会議が中国の千人計画(軍事研究)に協力している」とネットのガセ情報を持ち出すものだから、松宮氏に「デマじゃないですか」と一笑に付されていました。軍事研究に協力だなんて言うけど、任命拒否されたのはみんな人文系の学者ですしね。また、フジテレビの平井氏はお昼のワイドショーで既得権益団体であるというようなデマを発信して番組が謝罪する羽目になりました。ワイドショー、どうなっているんだ?

クリティカル・シンキング

安倍氏、菅氏らには、知性に対するルサンチマン(強者に対する怨恨)さえ感じます。ここのところ教育にかける予算を削っているのです。とくに、ときたま不要論が噂される文系の学問は風当たりが強いように感じます。即戦力を養成しない、金にならず役に立たない学問だというのでしょう。

苅谷剛彦との対談『大学はもう死んでいる?』で、吉見俊哉はこう言います。

 手段的な「役に立つ」ということの中からは、歴史の転換期に新しい社会の目的や価値の軸を創造することはけっして出てきません。では、どこから出てくるかというと、当たり前だと思っていることを疑う、クリティカル・シンキングからだということになります。これはつまり、方法化された想像力を用いて違う価値とどう交渉し、対話するかという作業であり、まさに文系の学問が常にやっていることです。哲学も含めて、文系の学問というのは、この異なる価値観の問題に関してはスペシャリストです。

クリティカル・シンキングは批判的思考と訳されます。たとえば、数十年前だと思いもよらなかった差別問題やジェンダーの問題を浮き彫りにしてきたのも人文学者のクリティカル・シンキングによるものです。私が狩猟採集生活の情報をあつめて現代日本文化を相対化していろいろ考えるのもそう。日本学術会議の前会長がゴリラの研究者だったと笑うツイートを見ましたが、ゴリラを研究することが人間や人間社会をとらえなおすことにつながると理解できない人がいるようです。

では、文系不要論が出てくる時代の日本国民は普通どのように思考するんでしょうか。私には想像がつきませんが、「あっちにつくか、こっちにつくか」を選択する人や「誰かの意見を無批判にコピペしてしまう」人が一定数いる気がします。陰謀論に飛びつく人もよく見かけますね。

『人新世の「資本論」』感想2

 『人新世の「資本論」』感想1からの続きです。

人新世の「資本論」 (集英社新書)

人新世の「資本論」 (集英社新書)

  • 作者:斎藤 幸平
  • 発売日: 2020/09/17
  • メディア: 新書
 

近年、「SDGs」という単語をよく耳にします。「Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)」の略称です。斎藤氏は「はじめに」でいきなりこう書きます。

 かつて、マルクスは、資本主義の辛い現実が引き起こす苦悩を和らげる「宗教」を「大衆のアヘンだ」と批判した。SDGsはまさに現代版「大衆のアヘン」である。

人間の経済活動により地球環境は激変しています。これからも、あらゆるものを破壊して成長しようとするでしょう。人間の欲望は止まりません。環境保護を謳いつつ今までと同じように経済成長も目指すというSDGsの欺瞞を斎藤氏は批判しているのです。

★    ★    ★

社会は、資本主義→(革命)→社会主義→共産主義と進歩するとむかし聞いたもんです。進歩史観とか史的唯物論と呼ばれる、マルクス主義の要諦といえる歴史観です(多分ね)。ならば、資本主義を抑制し「脱成長」を目指すのはマルクスや研究者にとって逆コースでは?

じつは、驚くべきことに、19世紀後半、カール・マルクスは西洋中心主義や生産力至上主義を改め、進歩史観(史的唯物論)を捨てたのだそうです[唯物史観を信じていたマルキストたちの悲鳴が聞こえます]。現在、世界の研究者が、マルクスの膨大な草稿や研究ノートを読み直す国際的プロジェクトが進んでいて、そこからわかってきたらしい。

『資本論』第一巻を公刊してからの晩年の15年間、マルクスは自然科学研究および《非西欧や資本主義以前の共同体社会の研究》に費やしたそうで、いろんな視座を得てマルクスの思想は変質したのですね。

共同体研究のほうでは、マルクスはとくに古代ゲルマン民族の「マルク協同体」に着目、彼らの社会システムに富の偏在が少なく、エコであり、(資本主義社会を経てないにもかかわらず)社会主義的傾向が認められました。原始共同体に「自然発生的な共産主義」という特徴があるのはマルクスも以前から知っていましたが、あらためて《「持続可能性」と「社会的平等」が密接に連関しているのではないか》と考えはじめたとあります。

[狩猟採集民はいくつかの段階を経て定住農耕社会にいたることが知られています。マルタ協同体は首長制社会だと思われます。エルマン・R・サーヴィスは『民族の世界』で首長制社会を、人口がより稠密になり高度に社会化されるが、余剰は再配分されると書いていました。]

マルクスが発見したのは《経済成長をしない循環型の定常型経済》です。《共同体においては、もっと長く働いたり、もっと生産力をあげたりできる場合にも、あえてそうしなかったのである。権力関係が発生し、支配・従属関係へと転訛することを防ごうとしていたのだ》。(註=引用内のゴシック体は、本文では傍点の箇所)

最晩年のマルクスは「脱成長コミュニズム」を構想していた、と斎藤氏は書くのです。地球を〈コモン〉(水、電力、住居、医療、教育など自分たちで民主主義的に管理する公共財産)として、人間と自然環境が共存していくことにより、本当の持続可能性が獲得できる……そう考えていた、と。

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『人新世の「資本論」』については書きたいことがほかにもたくさんありますが紹介しきれません。ぜひ読んでください。私は私で、一市民としての振る舞い方をあれこれ模索します。

 

──────【以下、余談】
外国旅行すると日本の常識がおかしく思えたりしますよね。私の場合、現代生活の常識を再検討するきっかけになったのが狩猟採集生活なのでした。

狩猟採集社会は人口爆発も起きず、自然と共存して同じような生活をしていたんです。移動に邪魔な財産もなく、人口密度も低いので他集団と争うことは少なかったはずです。誰かが土地を独り占めするような発想も必要性もありません。集団の人々は食事を平等分配していました。

現代にわずかに残る狩猟採集民から類推すると、農耕が始まる1万年以前はこんな生活が何万年、何十万年単位で続いていたと考えられるのです。持続可能性ということでいえば、これほど持続した社会はありません。数万年前の祖先よりわれわれが優れていると思ったら大間違いです。学ぶべきことは多いはずです。