狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

『人新世の「資本論」』感想2

 『人新世の「資本論」』感想1からの続きです。

人新世の「資本論」 (集英社新書)

人新世の「資本論」 (集英社新書)

  • 作者:斎藤 幸平
  • 発売日: 2020/09/17
  • メディア: 新書
 

近年、「SDGs」という単語をよく耳にします。「Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)」の略称です。斎藤氏は「はじめに」でいきなりこう書きます。

 かつて、マルクスは、資本主義の辛い現実が引き起こす苦悩を和らげる「宗教」を「大衆のアヘンだ」と批判した。SDGsはまさに現代版「大衆のアヘン」である。

人間の経済活動により地球環境は激変しています。これからも、あらゆるものを破壊して成長しようとするでしょう。人間の欲望は止まりません。環境保護を謳いつつ今までと同じように経済成長も目指すというSDGsの欺瞞を斎藤氏は批判しているのです。

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社会は、資本主義→(革命)→社会主義→共産主義と進歩するとむかし聞いたもんです。進歩史観とか史的唯物論と呼ばれる、マルクス主義の要諦といえる歴史観です(多分ね)。ならば、資本主義を抑制し「脱成長」を目指すのはマルクスや研究者にとって逆コースでは?

じつは、驚くべきことに、19世紀後半、カール・マルクスは西洋中心主義や生産力至上主義を改め、進歩史観(史的唯物論)を捨てたのだそうです[唯物史観を信じていたマルキストたちの悲鳴が聞こえます]。現在、世界の研究者が、マルクスの膨大な草稿や研究ノートを読み直す国際的プロジェクトが進んでいて、そこからわかってきたらしい。

『資本論』第一巻を公刊してからの晩年の15年間、マルクスは自然科学研究および《非西欧や資本主義以前の共同体社会の研究》に費やしたそうで、いろんな視座を得てマルクスの思想は変質したのですね。

共同体研究のほうでは、マルクスはとくに古代ゲルマン民族の「マルク協同体」に着目、彼らの社会システムに富の偏在が少なく、エコであり、(資本主義社会を経てないにもかかわらず)社会主義的傾向が認められました。原始共同体に「自然発生的な共産主義」という特徴があるのはマルクスも以前から知っていましたが、あらためて《「持続可能性」と「社会的平等」が密接に連関しているのではないか》と考えはじめたとあります。

[狩猟採集民はいくつかの段階を経て定住農耕社会にいたることが知られています。マルタ協同体は首長制社会だと思われます。エルマン・R・サーヴィスは『民族の世界』で首長制社会を、人口がより稠密になり高度に社会化されるが、余剰は再配分されると書いていました。]

マルクスが発見したのは《経済成長をしない循環型の定常型経済》です。《共同体においては、もっと長く働いたり、もっと生産力をあげたりできる場合にも、あえてそうしなかったのである。権力関係が発生し、支配・従属関係へと転訛することを防ごうとしていたのだ》。(註=引用内のゴシック体は、本文では傍点の箇所)

最晩年のマルクスは「脱成長コミュニズム」を構想していた、と斎藤氏は書くのです。地球を〈コモン〉(水、電力、住居、医療、教育など自分たちで民主主義的に管理する公共財産)として、人間と自然環境が共存していくことにより、本当の持続可能性が獲得できる……そう考えていた、と。

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『人新世の「資本論」』については書きたいことがほかにもたくさんありますが紹介しきれません。ぜひ読んでください。私は私で、一市民としての振る舞い方をあれこれ模索します。

 

──────【以下、余談】
外国旅行すると日本の常識がおかしく思えたりしますよね。私の場合、現代生活の常識を再検討するきっかけになったのが狩猟採集生活なのでした。

狩猟採集社会は人口爆発も起きず、自然と共存して同じような生活をしていたんです。移動に邪魔な財産もなく、人口密度も低いので他集団と争うことは少なかったはずです。誰かが土地を独り占めするような発想も必要性もありません。集団の人々は食事を平等分配していました。

現代にわずかに残る狩猟採集民から類推すると、農耕が始まる1万年以前はこんな生活が何万年、何十万年単位で続いていたと考えられるのです。持続可能性ということでいえば、これほど持続した社会はありません。数万年前の祖先よりわれわれが優れていると思ったら大間違いです。学ぶべきことは多いはずです。