狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

日本学術会議の問題

自分へのメモとしても日本学術会議のことについて書きます。興味のない方はスルーを。

論点は一つだけ

コロナ対策などとともに、いま興味があるのは日本学術会議の任命拒否の問題です。日々追っかけています。

この件、論点は一つだけです。

日本学術会議が推薦した会員6人を菅政権が任命拒否したことに法的根拠はあるか?

いたってシンプルではありませんか。

戦後発足した日本の国立アカデミー「日本学術会議」は、学者たちが候補者を選任し、そのときの総理大臣が形式的に任命してきました。ところが、菅義偉首相は今回提示された105人のリストのうち6人を任命拒否したのです。これは憲法15条や23条、日本学術会議法などに抵触しているのではないか。そうでないのなら法的根拠を示し、なぜこの6人が外されたのかを説明すべし。──具体的に書けばそういうことです。単純明快。

先週の野党議員(維新を除く)の衆参内閣委員会での追及も野党合同ヒアリングでも、おそらくテレビニュースや新聞記事(産経は違うかな)の論点も上記一点だけです。過去の国会でのやりとりを掘り出して法律の解釈を確認し、任命拒否の不当性を訴えているのです。一方、官僚は明確なプロセスも提示しませんし、法的根拠も示しません。「もともと首相に任命拒否権があった」と無理な主張をするのですが、その法解釈を裏づける文書は「見当たりません」と歯切れが悪い。

客観的に見て、旗色が悪いのは政権サイドです。

 

↑↑↑ 以上。ここから先は雑感です。↓↓↓

菅義偉総理大臣が迷走中

今回、任命を拒否された学者の共通点は特定秘密保護法や安保関連法案、共謀罪など、憲法に抵触するような法案に反対していた人たちです。外された理由はそれだとみんな察していますが、菅首相も加藤勝信官房長官も官僚も、さすがに口が裂けても認められません。6人を任命しなかった理由について訊かれると「個別の人事に関することについてコメントは控えたい」と繰り返すばかりです。

菅氏は「推薦された方をそのまま任命してきた前例を踏襲してよいのか考えてきた」(2020/10/5)と発言。前例を踏襲するもなにも法律上そうするしかないんですが……。

その後の菅氏は「総合的・俯瞰的な観点に立って判断した」と唱えるオウムになっていました。10/9のグループインタビュー(なぜ通常の記者会見を開かないのか)では「日本学術会議の会員はみずからの専門分野の枠にとらわれない俯瞰的な視点を持って社会的な課題に向き合うことができる人物が望ましい」と言ったそうです。俯瞰的、多過ぎ。

菅氏は挙げ句の果てに「推薦段階105人全員のリストは見ていていません」(10/9)と強烈な足カックンを喰らわせました。「総合的・俯瞰的な観点に立って判断した」わけじゃなかったの?? とすれば誰かが勝手に推薦リストから6人を削った、すなわち公文書を偽造した人物がいるのか? ……あっちでゴツン、こっちでガツン。その場しのぎがひどすぎます。案の定、加藤官房長官が今週初めから発言の修正を始めています。

問題を複雑化させているのは誰か

論点は一つだけなのに、任命拒否に関して、TwitterやFacebookなどのSNSで、妙な論法を持ち出す人がたくさんいます。学問の自由を持ち出すのは違うとか、日本学術会議の内実が不透明だとか、年間10億円も税金が拠出されるのかおかしいとか、民間にしろとか、中国の軍事研究に加担しているとか、年金がもらえる利権団体だとか、……論点ずらしや、明らかなデマまで見かけるのです。

シンプルな問題を複雑化させるこれらのノイズ拡散の片棒をかついでいるのはテレビのワイドショーらしい。橋下徹、辛坊治郎、平井文夫、立川志らく(敬称略)らの発言が、テレビを観ない私にも伝わってきます。

探して見てみた朝のワイドショーの動画では、立命館大学教授・松宮>孝明(任命拒否された1人)と橋下徹が議論していました。日本学術会議法などを持ち出して話す松宮氏に向かって、「ぼかあね、日本学術会議はこうすべき、政府もああすべきなんですよ」と言うんですが、架空の自分ルール持ち出したらダメじゃん。同番組では志らくが「日本学術会議が中国の千人計画(軍事研究)に協力している」とネットのガセ情報を持ち出すものだから、松宮氏に「デマじゃないですか」と一笑に付されていました。軍事研究に協力だなんて言うけど、任命拒否されたのはみんな人文系の学者ですしね。また、フジテレビの平井氏はお昼のワイドショーで既得権益団体であるというようなデマを発信して番組が謝罪する羽目になりました。ワイドショー、どうなっているんだ?

クリティカル・シンキング

安倍氏、菅氏らには、知性に対するルサンチマン(強者に対する怨恨)さえ感じます。ここのところ教育にかける予算を削っているのです。とくに、ときたま不要論が噂される文系の学問は風当たりが強いように感じます。即戦力を養成しない、金にならず役に立たない学問だというのでしょう。

苅谷剛彦との対談『大学はもう死んでいる?』で、吉見俊哉はこう言います。

 手段的な「役に立つ」ということの中からは、歴史の転換期に新しい社会の目的や価値の軸を創造することはけっして出てきません。では、どこから出てくるかというと、当たり前だと思っていることを疑う、クリティカル・シンキングからだということになります。これはつまり、方法化された想像力を用いて違う価値とどう交渉し、対話するかという作業であり、まさに文系の学問が常にやっていることです。哲学も含めて、文系の学問というのは、この異なる価値観の問題に関してはスペシャリストです。

クリティカル・シンキングは批判的思考と訳されます。たとえば、数十年前だと思いもよらなかった差別問題やジェンダーの問題を浮き彫りにしてきたのも人文学者のクリティカル・シンキングによるものです。私が狩猟採集生活の情報をあつめて現代日本文化を相対化していろいろ考えるのもそう。日本学術会議の前会長がゴリラの研究者だったと笑うツイートを見ましたが、ゴリラを研究することが人間や人間社会をとらえなおすことにつながると理解できない人がいるようです。

では、文系不要論が出てくる時代の日本国民は普通どのように思考するんでしょうか。私には想像がつきませんが、「あっちにつくか、こっちにつくか」を選択する人や「誰かの意見を無批判にコピペしてしまう」人が一定数いる気がします。陰謀論に飛びつく人もよく見かけますね。