狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

『スモール・イズ・ビューティフル』2/2

引きつづき、『スモール イズ ビューティフル』(講談社学術文庫)からメモ。雑談みたいなものです。

★   ★   ★

 民主主義、自由、人間の尊厳、生活水準、自己実現、完成といったことは、何を意味するのだろうか。それはモノのことだろうか、人間にかかわることだろうか。もちろん、人間にかかわることである。だが、人間というものは、小さな、理解の届く集団の中でこそ人間でありうるのである。そこで、数多くの小規模単位を扱えるような構造を考えなければならない。経済学がこの点をつかめないとすれば、それは無用の長物である。経済学が国民所得、成長率、資本算出比率、投入・産出分析、労働の移動性、資本蓄積といったような大きな抽象概念を乗り越えて、貧困、挫折、疎外、絶望、社会秩序の分解、犯罪、現実逃避、ストレス、混雑、醜さ、そして精神の死というような現実の姿に触れないのであれば、そんな経済学は捨てて、新しく出直そうではないか。(97頁)

10年くらい前、ジクソーパズルで解けないところがあると義姉が言うのです。「経済」は(  )の略語である、という問題でした。答えは「ケイセイサイミン(経世済民)」で、意味するところは「世を経(おさ)めて民を済(すく)う」だと言ったところ、義姉ならず義兄も驚いていました。案外、知られていないのかもね。

日本の経済政策や税制は、民を済っているようには思えません。

★   ★   ★

私はよく「答えのない問題」と「答えのある問題」なんて言います。G・N・M・ティレルという人は、それぞれ「拡散する問題」と「収斂する問題」と名づけているんだとか。

シューマッハーは、「拡散する問題」を扱うことは《より高い次元の力の登場を求め、引っぱりだし、それによって人生に愛と美と真実を与え》、《このような高い次元の力を借りてはじめて、二つの対立[拡散する問題と収斂する問題]が現実に和解させられるのである》と書きます。

物理学や数学は「収斂する問題」を扱うが、そればかり相手にしていると、人文科学の「拡散する問題」から遠ざかってしまう……その例として挙げられている、ある人物の述懐をお読みください。

 三十歳のときまで、あるいは三十歳をすぎてまで、たくさんの詩が私に大きな喜びを与えた。学校の生徒だったときでさえ、シェークスピア、とくにその史劇に非常なたのしみをおぼえた。私はまた、以前には絵画がかなりの、また音楽がたいへん大きな喜びを私に与えたこともいった。しかし今は、すでに長年、一行の詩を読むのも辛抱できない。 私は最近シェークスピアを読もうとしてみたが、それは耐えられないほど退屈で、嘔吐が起こりそうなくらいであった。私はまた、絵画や音楽への趣味もほとんど失ってしまった。……私の心は、事実の大量の寄せ集めをつきくだいて一般法則をつくりだす一種の機械になってしまったように思える。しかし、これがなぜ高尚な趣味のもとになる脳のその部分だけを衰えさせることになったのか、私にはわからない……これらの趣味の喪失は、幸福の喪失である。しかも、たぶん知性にとっても有害であろうし、われわれの本性の情緒的な部分を弱めるため道徳的性質にとって有害であるということは、もっとありそうなことである。

正直者ですね。

シューマッハーは、教育について、技術的ノウハウを伝えることも必要だが、《まず何はさておき価値観、つまり、人生いかに生きるべきかについての観念を伝えなくてはならない》と書いています。その《観念が貧しく、力弱く、上滑りでまとまりがないと、》堪えられないほどの《空虚感》に囚われ、そこに《たとえばとてつもなく大げさな政治的観念が現れて、突然何もかもを明るく照らし、生に意味と目標を与えてくれるように見えた場合、精神の空白は簡単にそれで埋められてしまう》と警告するのです。シューマッハーはナチス政権下のドイツを目の当たりにしました。

上記の引用は、『ダーウィン自伝』からだそうです。ナチスの優生思想に影響を与えたのはメンデルとダーウィンでした。