狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

イリイチ『シャドウ・ワーク』

中学のとき日本史の先生がこう言いました。「古来、男は外で仕事をして稼いでくる。女はセックスでお返しをする」──そのときは言葉の成否を深く考えず、セックスという言葉を聞くだけで下半身をもぞもぞさせていた私ですが、今思うに、まるっきり資本主義の考え方なのでした。

イヴァン・イリイチ『シャドウ・ワーク』(玉野井芳郎・栗原彬訳、岩波文庫。原著は1981刊)が文庫化されていたので、早速読みました。

シャドウ・ワーク(影の仕事)とは、自立・自存の生活を奪い取り、財とサーヴィスの生産を補足する、支払いがない労役。女性に押しつけられた家事、会社でのお茶くみ、通勤時間、教師や看護師の厖大な書類づくり、経済成長に資する「自己啓発」などが含まれます。シャドウ・ワークの領域に囲いこまれた人々は逃れようがなく、時間、労苦、尊厳を奪われます。

私たちは産業社会に囲いこまれてしまって、ヴァナキュラー[根づいていること、土着]な価値を剥奪されました。イリイチは産業主義社会を批判し、人間のコンヴィヴィアリティ(自立共生的)な暮らしを取り戻そうと主張しています。

冒頭の中学教師の言葉に対しては、この引用をもって反論しましょう。

 〈シャドウ・ワーク〉と賃労働とはともに連れだって歴史の舞台に登場した。(略)〈シャドウ・ワーク〉への繋縛は、なによりも性[セックス]で結ばれた経済的なつがいをとおして、はじめて達成された。賃金を稼ぐ者とそれに依存する者より構成される十九世紀の市民的家庭が、生活の自立・自存を中心とする生産=消費の場としての家にとってかわった。

賃労働する男と、家事、育児、教育などシャドウ・ワークを請け負う子専業主婦のセットは、わりと最近、産業主義社会の成立とともに生まれたものだと、人類学の本を読めばわかるはずです。さらに、現代では《資本家も人民委員[コミッサール]も、ともに賃労働よりも〈シャドウ・ワーク〉からより大きい利益を引き出す》。要は、資本主義は女からより搾取しているのです。

本書で提示される、「ヴァナキュラーな価値」という概念はなかなか興味深い。産業主義以前、人間は自立・自存していて、固有の言葉や文化を持っていて、シャドウ・ワークなんてなかったのです。

たとえば、帝国主義が発明した「母語=つくられた標準語」は、征服した未開人たちにも教えこまれます。独自の(ヴァナキュラーな)言葉や生活様式は、徐々になくなり、自立・自存だった社会が揺らいでいきます。産業社会の下地が出来上がるのです。日本も、明治以降は標準語を作り、教えることになりました。莫大なコストをかけて学校で言葉を教えはじめたのです。アイヌや沖縄はじめ地方の言葉や文化はどんどん消えつつあります。

今や資本主義は暴走しています。

生態系を破壊し、多様性を拝し、富める奴らの欲望が肥大する一方の社会に、私はなんの希望も抱いていません。経済成長の名のもとで犠牲になっている人たち──イリイチのいう、隔離体制の犠牲者たち、すなわち女性、患者、黒人、無学者、低開発国の人々、中毒者、敗残者、プロレタリアートを解放し、ヴァナキュラーな価値や自立・自存を取り戻さなきゃなりません。