狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

『「みんな違ってみんないい」のか?』

「おいおい、多様性に喧嘩売ってんのかよ」と、書店でツッコみ(もちろん心の中で)、でもまあ勝負してやるかと購入した本、山口裕之『「みんな違ってみんないい」のか?──相対主義と普遍主義の問題』を読みました。ずいぶん前の話ですけどね。

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《どうしたら多様な個々人が抑圧されないようにしながら多様な人たちが連帯できるのか》について書かれていました。

《「正しさ」は個々人が勝手に決めてよいものではなく、それに関わる他人が合意してはじめて「正しさ」になる》ともあります。 しかしながら、本書によると、世には「正しさは一つだけじゃない」といった言辞に溢れているようです。

──ここから少しややこしい、かも。

1960年代に構造主義が一世を風靡します。

レヴィ=ストロースやミシェル・フーコーが西洋文化を相対化していきました(=絶対的だった西洋中心主義の権威を失墜させたという意味です)。文化相対主義において、多様性の単位は文化という集団でした。「文化それぞれ」です。

やがて植民地独立、公民権運動、女性の権利、同性愛者らマイノリティが異議申し立てをおこないます。多様性が注目され、「人それぞれ」の時代が到来。そして、さきほど書いた《どうしたら多様な個々人が抑圧されないようにしながら多様な人たちが連帯できるのか》という問題が生じ、それを引き受けたのがデリダやドゥルーズでした。

一方、1990年代、多様性を求める声はアメリカ発の「新自由主義」にとりこまれます。新自由主義者は、個人の自由を尊重し、国家による介入を少なくします(いわゆる小さな政府)。 デリダやドゥルーズの思想が、個人の自由を尊重し、かつ平等な社会を模索していたに対し、新自由主義は容赦なく福祉切り捨てに舵を切ります。

フランス現代思想やカール・マルクスの思想は、抑圧された少数者の権利を保障しようとしましたが、91年、ソ連が崩壊すると、新自由主義(資本主義の暴走)が加速し、不平等な格差社会をつくりました。

日本では、鉄道民営化、国家公務員削減など、「個性尊重」と「自己責任」を旗印にいろんな改革をします。国家主導で「人それぞれ」主義=格差拡大を進めたのです。

1996年、小学校の国語の教科書に金子みすゞ「私と小鳥と鈴と」が掲載されます。「みんなちがって、みんないい」という一節で有名な詩です。同じころ、「正しい生き方なんて決まっていない」「答えは一つではない」「正しいかどうかは自分の感じ方で決まる」といった趣旨の歌謡曲が作られるようになりました。

こうして、「正しさは人それぞれ」というフレーズが、急速に日本中に蔓延していきました。この言葉は、一見すると多様性を尊重するよい言葉のように見せかけておいて、その実、個々人を連帯から遠ざけて国家にとって支配しやすいバラバラの存在にとどめておくのに都合のよいものたったのです。多様性を求める一九六〇年代の学生や市民の声は、権力にとってまことに都合のよい「正しさは人それぞれ」という形に骨抜きされて広まったのです。

──以上、第1章よりかいつまんで。「みんなちがって、みんないい」と「正しさは人それぞれ」は同じじゃないと思いますが、文科省がそういうふうに利用したのだとしたら、まあ、わからんでもありません。

大局的に見れば、人間はそれほどバラバラでもない(第2章)とも書かれています。そのうえで、この本は社会の「正しさ」について書かれているわけです。民主主義は熟議により合意形成をはかることですが、みんなが本当に「正しさは一つではない」と考えているなら、政府が議論もそこそこに強行採決をしたり、右派言論人が「あんたとはわかり合えない」と相手を切り捨てるのも理解できなくありません。あんたはBでしょ、私はAよ。