狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

亀井伸孝『森の小さな〈ハンター〉たち』

バカ・ピグミーの子どもの遊びを研究した亀井伸孝『森の小さな〈ハンター〉たち』を昨年12月に読みました。「ヒューマニエンス」という番組の「遊び」の回で、たまたま亀井氏を見て、「買ったまま読んでなかった」と積ん読本から抜き出してきたのです。

日本の人類学者が、カメルーンのバカ族の子どもに弟子入りし、日々の遊びを観察・分析した本です。著者はスケッチが上手く、子どもと仲良くなるのに役立ったらしい。

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エリザベス・M・トーマスは、クン・ブッシュマンの次のような遊びを書き残しています。亀井氏のレポートによると、バカ・ピグミーの子どもは学校でサッカーなどをすることもありますが、《集落や森で見られる遊びの中に、このような競争性の高いゲームを見いだすことはまれ》だったそうです。

少年たちは細長い棒を地面の小山に投げつけ、つれがはね返って、向こう側の草地に飛びこむところを見定めるという遊びをした。誰の棒がいちばん遠くまでとんだかを知りたがる点で、これはブッシュマンの遊びの中で最も競技に近いものといえる。

すなわち、たいていの遊びは「競技」とほど遠いということです。

エルマン・サーヴィスは、首長制社会では、戦争とともに、ボクシング、サッカー、レスリングなどの対抗競技が見られると書いています。勝ち負けが重要になるのは、所有権を争いはじめてからなのかもしれません。

もしかすると、狩猟採集民の遊びに「競う」要素は滅多にないのかな(優劣をつけないように抑制している?)と考えていたんです。本書にもあるとおり、カイヨワが挙げた遊びの四つの要素は、「競う」「模擬」「運」「めまい」ですが、「競う」はじつは遊びの要素ではなかったんじゃないか……。ところが、著者は、子どもが狩りや釣りをするさい、小動物や魚と知恵比べ(=競争)しているのだと書いています。なるほど、そういう見方もあるか。

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さて。
観察と分析の結果、亀井氏は、子どもは、生まれながらにして以下の能力を備えていると考えられると結論づけています。

  • 集団作りの力=集団に参加したいと欲し、その一員となる能力
  • 遊ぶ力=活動に内在する遊戯性を認識し、再現する能力
  • 物事を二つに分ける力=性別二項対立を認識し、再現する能力

この三つの性質があらかじめ備わっていれば、子どもは自発的に性別に割り振られた生業活動の集まりに加わり、面白さを見つけて楽しみ、やがてそれらの活動を担う成員となります。つまり、狩猟採集民の生業文化が再生産されるのです。

ヘヤーインディアン(北米のイヌイット)の社会には「Learn」という言葉がないと、人類学者・原ひろ子が書いています。

つまり、「教える」なんて行為は昔はなかったんでしょう。「学ぶ」は「真似ぶ」だなんて言い古されたこと書いちゃいますが、それはきっと正しいのです。子どもたちは狩猟も採集を真似して遊びます(たいして成果は上がらない)が、楽しいからやっているだけで、強制はされません。

著者が見た集団は農業も少しやっています。狩猟採集と違い、農耕は遊びの要素が少ないのでしょうか。《農耕だけは、子どもが自発的にそれを再現する遊びを構成しない生業活動》であり、連れられた子どもは休憩や間食の余暇的行為によって引き留められていたそうです。

フランス人が森に学校を建てたけど、バカの子どもたちにとっては遊び場の一つらしく、近くの農耕民の子どもと違って、すぐに通わなくなってしまうようです。では、現代人はなんのために学校に通うのでしょうか。