狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

コリン・M・ターンブル『森の民』

コリン・M・ターンブル『森の民──コンゴ・ピグミーとの三年間』(筑摩叢書)。

自然と一体となって暮らす人たちの話は心地良い。ほかの狩猟採集民の民族誌もそうですけど、何百万年もかけて醸成された、社会を平和に維持する知恵を感じます。

この本は、コンゴの森に棲むバムブティ(ムブティ)・ピグミーの民族誌です。1950年代、ターンブルは、ピグミーの正確な生活や儀式を記録し、歌を録音しました。

ピグミーには、フィルムでは捉えがたい興味深さがあるし、彼らの妙なる音楽は、とうてい録音では伝えきることができない。彼らは、苦労や悲劇が相次いで起ころうと、生活をきわめて意義あるものとし、人生を喜びと幸せに満ちあふれた、心配事にわずらわされない、すばらしいものにしてくれる何ものかを、森の中に見出している民族なのである。

(文末のリンクは、ターンブルが収拾した曲のひとつ。「雪よ岩よ我らが宿り俺たちゃ町には住めないからに」の『雪山賛歌』にそっくりでしょ)

ピグミーたちは定住した農耕民とも交流しています。村人はピグミーをしたがえているふりをしますが、森を知悉する彼らに怖れを抱いています。ピグミーも心得ていて、村人に面従腹背しつつ、肉を与える代わりに相応以上の見返りを要求します。したたかなのです。おそらく、1万年くらい前から、狩猟採集民、遊牧民、農耕民、小国家の人々らは、駆け引きしながら交流していたはずです。

ピグミーの工夫に富んだ生活術には、いちいち心を打たれます。書けば長くなるので、本書に記された最大のトラブルだけを紹介しましょう。

少々変わり者のセフーとその一家は、血縁集団と少し離れたところに小屋を建てていました。ある日、みんなが仕掛けた罠(網)の前に網を置いて獲物を一人占めしたセフーは、非難されても「自分がこの集団の首長だ。獲物は俺のものだ」と言い張ります。怒った集団の人たちは「われわれに首長はいない」と、全ての肉を奪い取りました。

セフーは空腹を訴え泣き叫びます。それを掻き消すように、みんなが宴会を始めました。しばらく歌って踊っていると、一人の男が立ちあがります。

マシンは食事をすませると、妻の料理した肉とキノコのソースを鍋に一杯つめて、暗闇の中に、彼の不幸な縁者のいる方向にこっそり姿を消した。[セフーの]嘆きの声がやんだ。そしてモリモ[=歌]の合唱がたけなわになったとき、私は男たちの真中にセフーの姿を見出したのである。(略)それは、彼もまた他の皆と同じように正真正銘のバムブティであることを意味していた。 *( )は引用者。 

無文字社会に明文化された法律はないけど、みんなで仲良くやろうという意志があり、きわどく平衡を保ちながら協働生活をしているのです。このエピソード、大好きだなあ。