狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

フロム『自由からの逃走』

エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』(東京創元社)を読みました。フロムは社会心理学者で、本書は1941年に書かれています。市井の人々がナチスを支持してしまった心理を明らかにしようとした1冊です。

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母親と子どものような第一次的絆が解消されると、人は孤独を感じます。そのとき「個人」となって《愛や生産的な自発性のなかで外界と結ばれるか》、さもなくば《自由や個人的自我の統一性を破壊するような絆によって一種の安定性を求めるか》の二択を迫られます。

註=邦訳は1951年に刊行されています。当時、「絆」には人と人の温かな結びつきという意味はなく、家畜を結ぶ紐という意味から派生した束縛・しがらみを差します。原著(英語)では primary bonds 。

社会全体も同じ心理のメカニズムがあり、宗教改革時代や近代資本主義社会が到来して人々が足場を失ったとき、多くの人は新しい何かに服従してきました。フロムはそれをサディズムとマゾヒズムの関係と重ねます。少数のサディスト的な圧政者に対し、マゾヒスト的に屈したのがナチズムでした。

屈服した人々の心理は、権威主義的思考と自動人形というキーワードで説明されます。

権威主義的思考とは、《人生が、自分自身やかれの関心や、かれの希望をこえた力によって決定されているという確信》のこと。《権威主義的性格のもつ勇気とは、本質的に、宿命やその人間的代表者や「指導者」などがことがらを、たえしのぶ勇気である。不平をいわずたえしのぶ勇気である。たえるということ、これがかれの最高の美徳である。》

自動人形とは、自己を喪失した人間がにせの自己を代置させること。《かれは本質的には、他人の期待の反映であり、ある程度自己の同一性を失っているので、かれには懐疑がつきまとう。このような同一性の喪失から生まれてくる恐怖を克服するために、かれは順応することを強いられ、他人によってたえず認められ、承認されることによって、自己の同一性をもとめようとする》状態をあらわしています。

近代デモクラシーを経た現代人は、真の個人主義を完成させたと思っていますが、本当にそうでしょうか。われわれの社会では、学校教育が自発性を抑えつけています。《子どもはまずかれの感情を表現することを断念し、ついには感情そのものまで放棄してしまう》。また、ラジオ、映画、新聞が《批判的な思考能力を麻痺させ》てもいます。みんな、からっぽの脳みそに他人の考えや感情をプリントされるのです。《われわれはみずから意志する個人であるというまぼろしのもとに生きる自動人形となっている。》

フロムは最後に服従から解放される方法を書きます。最初に書いた二択の最初のほう、すなわち、人や社会が個性を確保し《愛や生産的な自発性のなかで外界と結ばれる》選択をすることです。「自由からの」ではなく「自由への」逃走。みんなが能動的、創造的に生きることで積極的な自由を勝ち取れるとフロムは書いています。投票だけでなく日々政治的に生きることや、多くの人が働く機械であることをやめ、個人の創造性を発揮できる組織をつくること、などなど。

そうした未来が来ればいいけど……現代日本もかなり危うい。