狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

夏目漱石『坊っちゃん』と資本主義

簡単に書けば、資本主義とは、誰かが誰かを搾取して儲けることです。資本家が儲けるのは、がんばる労働者からピンハネするから。

政府は資本主義が好き放題搾取するのを許しちゃいけません。誰かが儲けすぎていたら歯止めをかけ、搾取されすぎている人々に再配分しなければなりません。

ところが、近年の新自由主義(ネオリベラリズム)といったらなんでしょう。政府は富裕層と自分たちが儲かる利権システムを作ってますます肥るのです。非正規労働を増やすことを決めて、自社が経営する人材派遣会社でボロ儲けした人がいました。こんな具合ですから、当然、格差は拡がります。

国鉄や郵政の民営化、平成の大合併、病床の削減その他で、市民に対するサービスはどんどん減っているんだから税金は下がっていいはずなのに、増税また増税……。日本の税収は過去最高だそうです。税負担率は、いまや五公五民です。

「新自由主義=暴走する資本主義」の風潮が蔓延すれば、「稼いだ奴が勝ち」という損得勘定が人間の意識を覆ってしまうようです。書店にいけば(おそらくYouTubeにも)、拝金主義の人たちによる「稼ぎ方を教えてやる」「成功したいならアレをやれ」といった指南書(動画)がたくさんあります。稼ぎ方を教えてくれるなんて親切な人たちです。買ったことありませんが。

大昔の狩猟採集民からしたら、きれいな絵が描かれたヒラヒラした紙は、焚火に燃やす以上の価値がないのではなかろうか。あんなものに人が群がるなんて、不思議です。

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原発事故のあと、資本主義についてぼんやり考え始めた私は、夏目漱石『坊っちゃん』が「正直」と「資本主義=損得勘定」が戦う作品だと気づきました。

親譲の無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。

世の中に正直が勝たないで、外に勝つものがあるか、考えてみろ。

考えてみると世間の大部分の人はわるくなる事を奨励しているように思う。わるくならなければ社会に成功はしないものと信じているらしい。たまに正直な純粋な人を見ると、坊っちゃんだの小僧だのと難癖をつけて軽蔑する。それじゃ小学校や中学校で嘘をつくな、正直にしろと倫理の先生が教えない方がいい。いっそ思い切って学校で嘘をつく法とか、人を信じない術とか、人を乗せる策を教授する方が、世のためにも当人のためにもなるだろう。赤シャツがホホホホと笑ったのは、おれの単純なのを笑ったのだ。単純や真率が笑われる世の中じゃ仕様がない。清はこんな時に決して笑った事はない。大いに感心して聞いたもんだ。清の方が赤シャツよりよっぽど上等だ。

この小説、おカネのことがやけに出てくるのです。

母が死んだ六年後、父が亡くなります。遺産を処分した兄は「おれ」に六百円を、十数年家にいた下女・清(きよ)に五十円を渡して別れました。兄はかなりせしめたに違いありませんが、「おれ」は気に留めたふうではありません。六百円で三年間学校に通い、松山の数学教師になります。月給は四十円です。

東京を発つ前、唯一「おれ」を可愛がってくれた清を尋ねると、清は《坊っちゃんいつ家をお持ちなさいますと聞いた。卒業さえすれば金が自然とポッケットの中に湧いて来ると思っている》。いよいよ出立の日、見送りに来た清は「もうお別れになるかも知れません。随分ご機嫌きげんよう」と目に涙を一杯ためました。

汽車の切符代、宿屋のチップとして五円を渡した話、団子二皿七銭、下宿の主人が骨董を売りに来る話、赤シャツ(教頭)の家賃の額……おカネの記述は続きます。

山嵐(会津から来た数学教師)がいい奴かどうか「おれ」はわからなくなり、以前奢ってもらった氷水代の一銭五厘を突き返そうとして口論になりました。以来、「おれ」は山嵐と口をきかず、一銭五厘は机のうえで埃をかぶることになります。

やがて、下宿を移った「おれ」は、事情通の下宿屋の婆さんに衝撃的な事実を聞きます。うらなり(英語教師)は父の遺産を騙しとられて零落したそうです。すると、金満家の赤シャツが、うらなりと婚約していたマドンナを横取りしました。ひとの気持ちもカネ次第ということでしょうか。赤シャツは、代々当地に住んでいたうらなりを宮崎に転任させようと画策。さらに俸給アップをちらつかせて「おれ」を籠絡しようとします。

頭のわるい「おれ」には、誰が正しいのかにわかに判断できません。下宿の婆さんに、山嵐と赤シャツのどちらがえらいか質問します。

「つまり月給の多い方が豪いのじゃろうがなもし」

赤シャツを卑怯な奴だと勘づいてたあとで、2人はこんな会話もしました。

「(略)お婆さん、あの赤シャツは馬鹿ですぜ。卑怯でさあ」
「卑怯でもあんた、月給を上げておくれたら、大人しく頂いておく方が得ぞなもし。若いうちはよく腹の立つものじゃが、年をとってから考えると、も少しの我慢じゃあったのに惜しい事をした。腹立てたためにこないな損をしたと悔やむのが当り前じゃけれ、お婆の言う事をきいて、赤シャツさんが月給をあげてやろとお言いたら、難有うと受けておおきなさいや」

若いうちは腹を立てて損するが、汚いカネであっても大人なら黙って受け取れ、と言うのです。カネになるなら原発だって動かしちゃいな、という理屈です。しかし、残念ながら、こちとら「坊っちゃん」です。大人しくするわけがありません。「おれ」は山嵐と和解し、赤シャツや野だ(野だいこ・画学教師)を制裁すると、東京に帰ってきます。その後、どう暮らしたか……。

 その後ある人の周旋で街鉄の技手になった。月給は二十五円で、家賃は六円だ。

「おれ」は月給四十円の不正直な大人の世界を捨て、月給二十五円で、清と一緒に正直な暮らしをしたのです。悲しいことに、清は肺炎にかかり、《お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云》って亡くなりました。

主人公はいくつになっても「坊っちゃん」として生きていくのでしょう。資本主義社会においては「損ばかりしている」人生かもしれませんが、私は上等だと思います。