ハシモトシテキ

立憲民主党・菅直人議員が、Twitterで橋下徹をヒトラーになぞらえたところ、橋下氏と維新が一斉に反撥しました。現在、維新は橋下氏と関係ないはずなのに。吉村洋文大阪府知事は「とんでもない発言だと思います。正式に謝罪をして頂きたい。これは国際法上はあり得ないことですし、どういった人権感覚をお持ちなのか、我々としたら正式に抗議をしますし、僕自身も抗議をします」と言いましたが、「国際法」って何? トランプ前大統領など、世界からヒトラー呼ばわりされてましたが、国際法とやらで裁かれていません。

安易に人をヒトラーにたとえるな、には一理あります。であれば、「橋下氏はヒトラーではない」と反論してもいいはずですが、私が見る限り皆無です。維新の主張は「他人をヒトラーにたとえるのはすべて御法度だ」なんです。不思議。

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橋下氏は、話をずらしたり、過去の発言と矛盾していたり、大声で相手の意見をふさぎます。その手の人が何人かテレビに出ているようです。あまりテレビを見ない私ですが、Twitterのタイムラインに動画が流れてきたりするんです。

当たり前ですが、「非常に難しい問題ですね。1時間ほど考えさせてください」と黙考する人は生中継のワイドショーには向きません。だから、思いつきの言葉をマシンガンのように繰り出す人が多くなります。竹内洋『教養主義の没落』(中公新書)に、教養主義が没落する一方で、80年代にビートたけしが賢い人と言われはじめたと書かれていました。以前は「頭の回転が速くて面白い」と言われた人が「頭がいい」に格上げされてテレビに出ているのです。岩波文化から角川文化へ、メインカルチャーからサブカルへ、新聞からテレビへ。最近では、東大生までタレントになるというではありませんか。

ネット検索すれば、橋下氏をヒトラーにたとえた人は何人か見つかります。ところが、橋下氏も維新も抗議などしていません。過去には、橋下氏も他人をヒトラー呼ばわりしていました。

このような、過去の発言と食い違うことがなぜ許されるのか、かねがね疑問だったのです。

山本敦久『ポスト・スポーツの時代』(岩波書店)に、最近の若者は「コミュニケーション能力」に敏感だとありました。就職活動で求められるのも、コミュ力だといいます。

ワンタッチで状況を打開していく攻撃に象徴されるバルセロナやアーセナルの選手の個別の身体運動と集団的な動的編制は、グローバル化する現代の労働場面で要求される個々の能力と組織論に近似している。それは現代の労働形態において目指されるものが、即時性や一回性、可変性や柔軟性、配慮、予見的な実現性、状況に応じて刻一刻と集合的な行為に関わるということである。

なるほど、グローバル化しネットワークが張り巡らされた社会やネット空間で、「即時性や一回性、可変性や柔軟性、配慮、予見的な実現性、状況に応じて刻一刻と集合的な行為」が重要だと見なされるのであれば、大衆は、真理、知性、論理、体系、前後の発言の整合性などは軽視されることになります。

これを読んで、橋下氏的な人たちがウケる理由が少し理解できた気がしました。同時に、自分が時代とマッチしていないことも。

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例によって蛇足です。

『ポスト・スポーツの時代』には、「コミュニケーション資本主義」という、政治学者ジョディ・ディーンが提唱した概念も紹介されています。

「コミュニケーション資本主義」とは、人々がネットで情報や情動をループさせつづけることで資本が増殖することだそうです。Twitter社やFacebookがSNSの場を用意しても、みんな無視すればなにも生まれません。多くの人が投稿し、フローすることにより、誰かの懐はあたたまります。広告収入が生じ、カネが生まれるのです。クリエイティブでアクティヴなユーザー、「バズる」インフルエンサーなどの情報や情動が彼ら自身のランクや評価やブランドの価値を高めると同時に、SNSは登録者を増やします。多くのユーザーが「いいね!」をするなどプラットフォーム上でコミュニケーションをとる(無償労働する)ことで、巨大資本はますます肥っていく。

やだやだ、資本主義のなかでは、祝祭もパンデミックもSNSも、知的な情報もデマゴーグも、なんでもカネ儲けのためにあるようです。とりあえず、Facebookとは距離を置いてみます。