狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

とりあえず、一息。「ふう〜」

オリンピック閉会式も終わった模様です。長いあいだ水のなかに潜っていた気分です。とりあえず、一息つかせてください。「ふう〜」

選手やスタッフのみなさん、無観客およびコロナ感染のストレスのなか、たいへんお疲れさまでした。私は生中継はほとんど見ず、大好きな陸上もハイライトを見た程度ですが、テレビを見ない代わりにオリンピックやスポーツについてずいぶん考えました。

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いや、実はここ数年、モヤモヤと考えていたんです。私は《狩猟採集社会に勝ち負けを争う競技はない》こと、《町内の小学生の相撲大会や、河原でやっている草野球でさえ楽しめる》こと、《走るのを見るより、自分で走るほうが楽しい》ことなどと、オリンピック観戦で興奮することとどう結びつくのか、よくわからないんです。

私は「日本人がメダルを獲った!」と喜ぶタイプではない──そうじゃなきゃ、日本人がメダリストになりにくい陸上ファンなんてやってられません──から、ほかの人と違うのかな。

狩猟採集民の場合、狩猟やランニングは生活上不可欠なものです。スポーツと呼べるものはダンスくらいでしょうか。L・ヴァン・デル・ポストが撮った20世紀半ばのブッシュマンの映像には、数人の女性が輪になってスイカを投げて遊んでいるシーンがあります。同じ遊びが『世界ウルルン滞在記』#49「アフリカのブッシュマンに…加藤晴彦が出会った」(1996.4.14放映)に出てきて、私を感動させました。

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エルマン・R・サーヴィスは未開社会の変化を次のように整理しています。
  1. バンド=移動型狩猟採集社会
  2. 部族(トライブ)=バンドより大きな集団で、定住し、園耕や牧畜をする
  3. 首長制社=人口がより稠密になり高度に社会化される。余剰は再配分される
  4. 原始国家=領土観念や政治的な力を集中した政治機関を持つ大規模社会

戦争とスポーツができるのは首長制社会です。20世紀初頭のタヒチには、サッカー、ホッケー、ボクシング、レスリング、競歩、競泳のような競技があり、サーヴィスはそれらを「精神的戦争」と呼んでいます。ほとんどすべての競技が、攻撃的に行われ、なかには危険きわまりないものもいくつかあったそうです。近代国家は、それらの競技にルールをつくり、スポーツとして整備しました。オリンピックやワールドカップは国家間の代理戦争かどうかが議論になりますが、スポーツの出自が「精神的戦争」であるならば、代理戦争であることは否定できないのではないでしょうか。

狩猟採集社会には勝ち負けはありません。河原でやっている還暦野球やふらりと球場に入ってみる弱小チーム同士の高校野球予選を見るときも勝ち負けに関係なく楽しめます。

オリンピックでメダル争いをするのはなんのためでしょうか? オリンピック憲章には、《オリンピック競技大会は、 個人種目または団体種目での選手間の競争であり、 国家間の競争ではない》と明記してありますが、新聞やテレビで国ごとのメダルの数が比べられます。表彰式には金メダルの選手が所属する国旗が揚がり国家が流れます。これじゃほんとに代理戦争です。

待てよ、みんな頑張ったんだから勝ち負けを強調しなくてもいいんじゃないか?

稲垣正浩・今福龍太・西谷修の鼎談『近代スポーツのミッションは終わったか』(平凡社)という本は、私が作られた歴史と考えているナンバ走法から始まっているので途中で投げ出していたんですが、このさい通読してみました。たとえば、次の発言──

今福 (略)僕はスポーツにおいて「勝つ」ということを絶対化する原理をずっと問いつづけてきまして、この絶対視されている勝利至上主義をどうやって相対化するか、近代スポーツを論ずるときにこれを相対化することは不可能なのか、ここをぎりぎりまで考えつづけてきたわけです。(略)一見スマートなふりをした勝利至上主義によってつくられるスポーツの暴力性というものがあって、むしろ、僕らにとって本当に考えねばならないのはそちらの方の暴力であって、競技スポーツが勝利を標榜することでひたすら構築してきた機構というか、暴力装置というものが、どういうものであるのか、これが問われなくてはいけないのではないか。(略)

そう。私が問いたいことも同じです。

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オリンピックなどのスポーツイベントは、誰かが金もうけするためのもの。ジュールズ・ボイコフが祝賀資本主義と呼んだように、選手は道具にされているのです。限界まで努力してきた選手が見事な技を決めると観客や視聴者が感動し、感動は換金されてオリンピック貴族の懐にチャリンチャリンと入っていく。みんなが盛り上がると、社会の諸問題が忘れられます。これをスポーツウォッシングと呼びます。スポーツ選手は自分たちが搾取されていることを自覚しているのでしょうか。

吉見俊哉は、「より速く、より高く、より強く」というオリンピックのモットーが成長主義とリンクしていて、それから脱却しなければならないと書いています。つまり脱成長。開発主義から環境主義へ──。

以上、まだ自分のなかでも結論は出ませんが、ひとまずメモとして。

そうだ。アンケートによれば、オリンピックをやってよかったという人が多いそうですが、現政権の支持率は連動して上がってはいないようで、日本国民がスポーツウォッシングにごまかされなかったことは喜んでおります。

とりあえず、もう一息つきます。「ふう〜」