狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

答辞に代へて奴隷根性の唄

   答辞に代へて奴隷根性の唄
 
 奴隷といふものには、
 ちょいと気のしれない心理がある。
 じぶんはたえず空腹でゐて
 主人の豪華な献立のじまんをする
 
 奴隷たちの子孫は代々
 背骨がまがってうまれてくる。
 やつらはいふ。
 『四足で生まれてもしかたがなかった』と
 
 といふのもやつらの祖先と神さまとの
 約束ごとと信じこんでるからだ。
 主人は、神さまの後裔で
 奴隷は、狩犬の子や孫なのだ。
 
 だから鎖でつながれても
 靴で蹴られても当然なのだ。
 口笛をきけば、ころころし
 鞭の風には、目をつむって待つ。
 
 どんな性悪でも、飲んべでも
 蔭口たたくわるものでも
 はらの底では、主人がこはい。
 土下座した根性は立ちあがれぬ。
 
 くさった根につく
 白い蛆。
 倒れるばかりの
 大木のしたで。
 
 いまや森のなかを雷鳴が走り
 いなづまが沼地をあかるくするとき
 『鎖を切るんだ。
 自由になるんだ』と叫んでも、
 
 やつらは浮かない顔でためらって
 『御主人のそばをはなれて
 あすからどうして生きてゆくべ。
 第一、申訳のねえこんだ』といふ。

──金子光晴『人間の悲劇』(1952)所収

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金子光晴は20年ほど前にまとめて読みました。戦前、妻森三千代との恋愛をたしかめるために、長崎の三千代の実家に子供を預け、夫婦でパリへと出奔する『どくろ杯』『ねむれ巴里』『西ひがし』……どれもたいへん良かった。

戦時中、文学者の多くは文学報国会という、内閣情報局の機関で戦争に協力します。平野謙らは非協力的な人物のブラックリストを作っていました。そんな状況下で、金子光晴は例外的に反戦的な詩人だったと言われます。随筆集『詩人』を読むと、昭和12年に金子光晴はそれとはすぐにわからない反戦詩集『鮫』を出版、以後も文学報国会に協力せず、近所に反戦論を吹聴しました。有名な話ですが、喘息持ちの子供が召集されそうになると松葉を焚いて煙を起こし、発作を誘発することで召集逃れをしました。

 戦争に反抗して殺されるのを怖れる人たちも、結局は駆り出されて死ぬ。反抗する者がたくさんあれば、或いは戦争を食い止めることができるという希望があり、まだしもよいのに、どうしてそこのふんぎりがつなかいのかと歯がゆかった。一国をあげて戦争に寄っているとき、少くとも、じぶんだけは醒めているということに、一つの誇りがあった。日本中の人間が誰ひとり、一旦獲得した自我や人間の尊厳をかえりみようとするもののなくなったことは、恥かしいことだ。
 じぶん一人でもいい踏み止まろう。踏止まることがなんの効果のないことでも、それでいい。法燈をつぐという仏家の言葉がある。末世の混濁のなかで、一人無上の法をまもって、次代に引きつぐことをいうのだ。僕も、人間の良心をつぐ人間になろうと考えた。一億一心という言葉が流行っていた。それならば、僕は、一億二心ということにしてもらおう。つまり、一億のうち九千九百九十九万九千九百九十九人と僕と一人とが、相容れない、ちがった心を持っているのだから。 (『詩人』より)

冒頭の詩「答辞に代へて奴隷根性の唄」は、戦時中の日本社会に想を得たものでしょうか。ラ・ボエシ『自発的隷従論』やルソー『人間不平等起源論』と驚くほど似ています。

人間の悲劇 (講談社文芸文庫)

人間の悲劇 (講談社文芸文庫)

 
自発的隷従論 (ちくま学芸文庫)