狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

自分に甘いか厳しいか

自分に甘いか厳しいか、と問われれば、私は後者でしょう。子供のころはすべて先送りでのほほんと暮らしていましたのですが、19歳でだいぶん変わりました。

中学高校と勉強しなかった私は、恥ずかしながら二浪もしたんです。さすがに2年目ともなると崖っぷち。正解が決まった問題を解くなんて学問とは呼べないと思いつつも、割り切って受験テクニックを磨きました。夏休み前まではバイトをしましたが、そのあいだも勉強時間を確保しました。

同じ間違えを繰り返さないのがポイントだと自分に言い聞かせ、問題集の100問で95問が合っていたとしたら、間違えた5問を徹底的にやりなおしました。1時間寝坊したら、時計を1時間戻して8時間以上は勉強します(大人になって、答えのない問題を長時間解く仕事のほうが大変だと気づきました)。目標大学の過去問を解いたとき点は──自己採点が80点だったら64点というふうに──8掛けにして「まだまだ合格ラインにはほど遠い」と自分に笞打つわけです。

当時のクセがどうやら今も抜けてないようなのです。マラソンを走るたび自己ベストが出ていたころ、ラン仲間が褒めてくれても「まだまだ課題がある」と気を引き締めてばかりで、大喜びしたことがありません。いま考えれば、もったいなかったゼ。

思い出したエピソードがいくつかあります。1つだけ書きます。

就職活動していた大学4年生の夏、ある大手会社の筆記試験を受けました。簡単な常識テストだろうとタカをくくっていましたが、さにあらず。まるで大学入試みたいでした。記憶ではたしか国語と数学の2科目で、国語のほうは、古文や漢文が出たとしてもなんてことありませんが、とにかく数学が難しい。微分・積分や三角関数が出題されたのです。高校時代、数学の時間に本ばかり読んでいたことを後悔しました。解答欄を埋められたのは、最初の連立方程式3問くらいと、唯一得意だった確率の問題だけです。(他の問題が解けないぶん確率の問題に集中できたため、計算式で解いたあと、厖大な樹形図を書いて正答であることは確認しました)。配点にもよりますが、自己採点は20〜30点でしょう。

試験が終わり、会場にいた同級生総勢5名で飲みに行きました。当然、数学が難しかったと話題になりましたが、ほかの4人は半分くらいはできたと言います。Yなどは「8割はできたぞ」と笑みを浮かべました。われわれの専門は文学ですから、国語の出来は同じようなものでしょう。私は落ちたなと、うなだれました。その夜の酒はまずかった。

ところが、数日後、5人のうち筆記試験の合格通知が届いたのは私だけでした。Yは、「お前、数学が2、3割しかできなかったというのは嘘だろ、90点は取ってるはずだ」と私に言いました。自分が8割できたと言った手前、恰好がつかなかったんでしょう。空白の解答欄にマルはもらえません。

自分分析ついでにもう少し。

最近気づいたんですが、私はいわゆる承認欲求が稀薄だと感じます。褒められるのがイヤではありませんけど、他人の評価はあまり気にしません。SNSやブログは半分メモのつもりで使っていて、フォロワー、PV、「いいね」の数を気にすることもありません。

小さなころから、親は完全に放任主義で、私を褒めたり叱ったりしなかったのです。期待されたこともありません。たとえば「◎◎になりたい」と言うと、「なれるわけない。普通でいい」という反応です。だから私は他人の評価を気にしなくなったと考えているんですが、「褒められなかった子供は、その反動で、大人になってから他者承認欲求が高くなる」と説明する人もいます。私はそうは思わないなあ。

ひとと会話しているとき、たまさか「mugibatake40ro(仮)さん、すごいですね」とお世辞を言われたりすると、軽い下ネタを返します。

──「すごい」じゃなくて、「すごそう」と言って。