狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

放送大学『「人新世」時代の文化人類学』終了

ふう……疲れた……。仕事が重なっていたのに加え、ここ2日ほどで放送大学のテストを解いていました。(コロナにつき、在宅で問題を解いて郵送します)

「学割で得したい」という目的で入学した放送大学ですが、興味のある授業を選んで楽しんでおりまして、2021年度後期は大村敬一、湖中真哉ほかによる『「人新世」時代の文化人類学』を受講したのです。

前期は政治思想史を受講して、関連本を読むなどして結構疲れました。後期は、ひととおり学んだ文化人類学で少しラクさせてもらおうと考えたんですが、届いたテキストを見ると、私が独学してきたことと1割くらいしか重なりません。結果的に、文化人類学の新たな知見を得られましたけど、それなりに疲れました。

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人新世(アンソロポシーン)とは《現在形成されつつある地層が人類という生物種の活動による地球環境の変化によって「完新世」とは異なる地層となりつつあり、人類の活動の痕跡が馳走に永続的に残ることが予測されるという地質学的な事実を根拠に、私たちが生きている現在を指す地質年代として提唱されている地質学的な概念》だそうです。斎藤幸平『人新世の「資本論」』は、ひとシンセイと音訓混じりで読ませていましたが、この講義ではジンシンセイと音読みにしています。私は音読みに揃えたい。

人類は、数億年かけてできた石油の大半を250年で使い果たそうとし、環境を激変させています。10年後か50年後か100年後かわかりませんが、人類は壊滅的な打撃を経験するでしょう。

そんな危機に対し、文化人類学はいろんな知見を与えてくれます。もはや誰も疑わない絶対的な概念を相対化し、新たな考え方を提示するのです。

たとえば、「自然/人間」という近代の絶対的な対立軸を解体したり(人間は自然の一部です)、「ある民族や国の本質はなになにである」という本質主義から脱したりする(日本人は全員が全員勤勉ではないし)……。

そうした《存在論的転回》を実践することで、文化人類学は人間社会や地球が目指すべき新たな方角を見定めるのです。

講義では、文化、グローバリズム、SDGs、エイジズム、医療などを考え直していきました。私が考えていることと重なっているので、本質的には、理解に苦しむことはなかったかも。

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何度もか紹介されたダナ・ハラウェイはそのうち読まなきゃなりません。あまりに面白いので、テキストから長文を引用します。

 ダナ・ハラウェイは、人新世や資本世といった概念は、自然界の中で人間だけは例外だとする人間例外主義(human exceptionnalism)と個人主義に基づくものだと批判している。人間例外主義に立てば、[略]人新世は人類にとっての危機であり、定年をもって人類の絶滅を受け容れるか、地球工学などの科学技術によって地球を改造することによって地球を改造することによって危機に立ち向かうかの二者択一しかなくなる。AIによる人類の支配を受け容れるのか、それと戦うかという二者択一もこれと同じ図式である(人新世の地球もAIも人間が創りだした手に負えないモンスターである点は共通している)。しかし、彼女は、この二者択一を退ける。
 そこで、ハラウェイが用意した回答に人はあっけにとられるに違いない。彼女は、人新世時代においてわれわれは、ヒューマンではなく、ヒュームス(腐植土)だという。ポスト・ヒューマン(より進化した人間)ではなく、コンポスト(終わった後の時代をともに生きる堆肥)だという。[略]彼女は、人間を腐植土や堆肥とみることによって、人間は有限であり、いつか土と化す限りにおいて、そもそも地球の一部であることを換気している。人間を地質と切り離して、地質に影響を与えるこどの存在だという言う[ママ]以前に、そもそも人間は地質の一部に過ぎない。[略]
 彼女は、人新世や資本世に代えて、「クトゥルー新世(chthulucene)」をある種のSF的な思考実験として提唱しているが、それが地を這うクモやタコのような触手状の生物をモチーフとしていることは興味深い。クトゥルー新世においては、人間はもはや境界をもち外界と区別される自立した生物ではなく、他の生物や地球上のものとの間で複雑につながった触手状のネットワークの一部として捉えられている。(113〜114ページ)

クトゥルー(クトゥルフ)をご存じない方は画像検索してみてください。

私は、人間と自然を分けずに生きる狩猟採集民の話をたくさん読んできました。人はもともと、森の一部、サバンナの一部として生きていたのです。狩猟しながら生きていたデルスー・ウザーラも、あらゆるものを人のように呼ぶから、ロシア人に笑われていました。

もう一カ所引用します。

科学史研究者でフェミニスト理論家のダナ・ハラウェイは、出生率が低下している国々において、移民への畏れが問題であることを認め、人種の純粋性を守ろうとするような計画や幻想が出産促進論を駆り立てていることをはっきりと認めるべきだと主張している。ハラウェイは「赤ちゃんではなく親類を作ろう(Make Kins, not babies)」という標語を唱えているが、ここでいう「親類」とは血縁でつながる家族のことではなく、風変わりなつながりを作り出すことを意味している。[略]人口爆発によって地球にも副次的被害が及ぶことが予想される中、もはや手遅れであると悲観するのではなく、厄介事とともに留まる(Staying with trouble)ことが必要であるとハラウェイは述べる。(127-128ページ)

子供を作ることを私は否定しませんが、ハラウェイの「親類」という概念は新たな視点を与えてくれます。人と人は血縁関係がないのに姉妹のふりをする阿佐ヶ谷姉妹のようにネットワークを構築し、さらに地域や自然界へと延ばし、地球の一部として振る舞うべしと言うのです。オケラだってミミズだってアメンボだってみんなみんな生きているんだ阿佐ヶ谷姉妹なんだ〜。

さて。私はどのようにして生きるべきか。この講義を受けているあいだに56歳になっていましたとさ。