狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

感動は How much?

なにかのオリンピックで、スタンドにいた日本人観客が「感動をありがとう」という手書きのボードを並べて掲げていました。

それを見た瞬間、私は気づいてしまったのです、かねがねあやしく感じていた「感動をありがとう」なる定型句は、試合の結果に関係なく使える便利な言葉であることに。メダルを獲っても敗退しても「感動をありがとう」です。柔道の会場から水泳の会場に行き、同じボードを掲げることもできちゃいます。

だいいち「感動をありがとう」って身勝手ではありませんか。観客は選手の勝敗やプレー内容にはいっさい言及せず、自分が感動したかどうかを基準にするのです。

ありがとうがお金を生んだ?

何度か書きましたが、狩猟採集生活している人たちは、誰かが動物をゲットしたら集団のみんなと平等分配します。もらった人びとはいちいち「ありがとう」と言いません。

「俺がシカ5頭を獲ったあいだに、お前は1頭しか獲ってないじゃないか」なんて貸し借りを始めたら集団が成立しません。猟が下手な人は弓づくりや歌やダンスがうまいかもしれず、したがって狩猟とは別の形で集団に貢献しているかもしれませんが、シカ肉何キログラム貸しがあるから何曲歌え、なんてややこしい。

定住し、農耕をはじめたどこかの段階で「ありがとう」という言葉が生まれました。すると、「こないだムギを500グラムあげたら一回『ありがとう』と言われたので、2倍もらったときは2度『ありがとう』と言わなきゃ。待てよ、牛乳1リットルもらったときは、ムギ何グラム分の『ありがとう』にしなきゃならないのか?」てなことになります。

一説によると、「ありがとう」は貸し借りや負債に結びつき、負債という意識はお金を生んだのだとか。

何百万年も続いた狩猟採集生活では負債を考えないほうがうまくいくと考えたのではありますまいか。しかし、いつしか人間は禁断の損得勘定を始めてしまいました。

現代は、なんでも金に換算します。「◎◎さんのお葬式、いくら包む?」「そうねえ、私たちはいろいろとお世話になったから◎万円かなあ」。後日、香典半額相当のお返しが来ます。

感動は金になる

田舎芝居や『24時間テレビ』を観ればわかるように、感動はお金になります。安直なストーリーで泣かせるテレビドラマなどは、かつて「お涙頂戴」とバカにされていましたけど、陳腐であれ、感動させればお金が落ちます。

スポーツをお涙頂戴のレベルまで落としているという意味でも「感動をありがとう」は不快だったんですけど、しばらくすると選手自身が「感動を与える」と言いはじめました。ひとの感動なんてどうでもいいから自分のためにやんなさいよ、と言いたくなりますが、みんな「感動」が商品になることを知っているのかもしれません。

オリンピックを観るみなさんは、勝っても負けても「感動をありがとう」と言いなさいな。感動はカネを生み、中抜きされたあと、選手に還元されるでしょう。そう、選手も搾取されているのですよ。勝利した一部のアスリートは議員になって搾取する側にまわるかもしれませんけど、橋本聖子組織委委員長をご覧なさい。国務大臣経験者であるというのに、まるで誰かにあやつられたような話しぶりです。

──東京オリンピックまであと8日。