狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

丸山眞男「政事の構造」

最近、丸山眞男にハマっているのです。学生のころは政治や政治思想にも興味がなかったから不思議なことです。狩猟採集社会と現代人間社会を比較しているうちに、哲学、経済、日本の歴史や政治史などに興味が拡がっていきました。丸山について何度かに分けて書きます。「丸山眞男」のカテゴリーも作っちゃお。

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今回は手短に丸山眞男「政事の構造──政治意識の執拗低音──」(1985)について。講演録です。文庫などに収録されてないらしく、図書館に行き「丸山眞男集 第十二巻」からコピーしました。

政事(まつりごと)は祭事(まつりごと)でもあるから祭政一致が日本の国体だ、いう言い方は伊勢神道以前にはなかったといいます。

江戸の国学者・本居宣長は、政事とはもともと奉仕事(まつりごと)だ、と書いたそうで、それをうけて丸山は献上事(奉仕を献上すること)だろうと書きます。

日本は皇帝がいて下々に命令するという政治体制ではありません。

  • 人民は「決定」する大臣につかえまつる(仕奉)。
  • 大臣は天皇にまつりごと(政)つかへまつったり、まを(申)したりする。
  • 天皇はまつりごときこしめす(お聞きになる)

われわれは為政者が上意下達で命令するものだと思い込んでいますが、言葉のうえではそうなっているのです。《日本の場合、政事的統治が、上から下への支配よりは、下から上への「奉仕の献上」という側面が強調されてい》て《そこに政事の「執拗低音」がひびいております》。

単純に、上から下へと支配する構造ではない日本では、なにが起きるか。

(略)日本では「政事」は、まつる=献上する事柄として臣のレヴェルにあり、臣や卿が行う献上事を君が「きこしめす」=受けとる、という関係にあります。そこで一見逆説的ですけれども、政事が「下から」定義されていることと、決定が臣下へ、またその臣下へと下降してゆく傾向とは無関係と思われないのです。これは病理現象としては決定の無責任体制となり、よくいえば典型的な「独裁」体制の成立を困難にする要因でもあります。

無責任体制! 神話から近世までを語っていた本論考がいきなり近代を照射します。

では正統性をもつ時代時代の天皇は真の最上位者なのでしょうか。丸山は、じつはそれも違うと言います。

(略)天皇自身も実は皇祖神にたいしては、また天地地祇にたいしては「まつる」という奉仕=献上関係に立つので、上から下まで「政事」が同方向的に上昇する型を示し、絶対的始点(最高統治者)としての「主」(Herr)は存在の余地はありません。『日本書紀』の一書の一説に国造りを終った「イサナキノミコト」が「天にのぼりかへりことまをす」という個所があります。日本の国土と主権者を産出したイサナキが天神の誰に対して「かへりことまをし」たのか、ついに不明なのです。(略)無限に不特定の上級者への遡及があり、「究極なるもの」は実在しない、ということをつけ加えておきます。

ここで「長時間のご清聴を感謝申し上げます」と講演は終了。

聴いている人に寸止めを食らわせますが、みんなわかったでしょう。日本には「究極なる」責任者がいないという事実です。つい最近も、公文書改竄を指示した役人が起訴されるどころか出世しました。監督大臣も総理大臣も「責任を痛感」したり「遺憾」だと言いますが、辞任なんてしません。同じようなことが、歴史を調べれば山のように出てくることでしょう。