本棚から竹内洋『立志・苦学・出世──受験生の社会史』(講談社現代新書)を取り出し、読み直しました。今は講談社学術文庫に入っているんですね。
新書は1991年刊。明治から昭和の終わりにかけての受験について書かれています。
現在のような受験システムになったのは明治30年後半。漱石『三四郎 』の主人公が上京してきたころです。入試を「受験」と呼ぶようになったのも同じ時期らしい。明治40年ごろすでに予備校も参考書もととのっていたとのこと。旺文社の前身である歐文社から「受験旬報」(のちの「蛍雪時代」)が出されていましたが、そういった受験雑誌は世界に例を見ないとか。著者は、日本の受験雑誌は受験生の意欲に火をつけるものだと言います。
「頑張らなければいけない」
そう、頑張って勉強して立身出世することは日本ではとても価値のあることでした。
《努力と勤勉は近代日本の民衆の中核的エトス(生活倫理)であったからである》(第四章)
《事実、努力・勤勉・忍耐などの近代日本の自己鍛錬のエートスは、元禄・享保期の商品経済の急激な転換による零落の危機の時代にサバイバル倫理として誕生したものである》(第六章)
──参考文献にもあるとおり、これは安丸良夫の「通俗道徳」です。
ところが、昭和40年代、灰色だった受験の様相が変化します。社会が豊かになっていくと《努力と勤勉という近代日本人のエートスは、価値でなくな》っていく。《近ごろ(註=1990年ごろ)の有名大学生は、受験でほとんど勉強しなかったことをひけらかそうと》する。《こうして受験から努力や勤勉の強迫観念が取り払われることによって試験の秘儀性が剥離され始めたことが受験のポスト・モダン現象》である。かくして、受験の化けの皮がはがされ、予備校は受験テクニックをあからさまに教え始める……。
苦学や学歴に対する鋭い指摘(ホット/クールなど)もあるのですが、それはぜひ本で読んでいただくとして。
テーマが「受験生の社会史」ですし、そう考えている人が多いのは事実とはいえ、大学受験が資格試験の一種みたい書かれているのは少し不満でもあります。そういえば、「どこの大学出たか」と尋ねられることはあっても、「何を学んでどんな卒論を書いたか」と質問されることはありません。
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『立志・苦学・出世』が出たのも、私が大学を卒業したのも、バブルがはじける頃。30年経ち、状況は変わっています。全員大学に入れる時代となった代わりに学生を確実に青田刈りするAO入試が増え、学費は値上がりし、奨学金を借りると卒業時に1千万円の借金ができると言います。今はコロナでキャンパスに入れません。いわば受験のポスト・ポストモダン現象が起きています。
格差が拡がると、「富裕層は教育にかけられる金が多くなるため、子どもがいい大学に行ける」というような機会の不平等も起きるのです。ポスト・ポストモダン現象は、明治の状態に似ています。
大学はなんのためにあるのか。
学問とはなにか。
大学がこんなにたくさんあっていいのか。
大学受験は資格試験なのか。
……疑問はたくさんありますが、私の考えはまたいずれ。