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松岡亮二『教育格差』の個人的感想

教育格差 ──階層・地域・学歴 (ちくま新書)

教育格差 ──階層・地域・学歴 (ちくま新書)

  • 作者:松岡亮二
  • 発売日: 2019/07/26
  • メディア: Kindle版
 

知り合いからついにコロナ感染者が出ました。自宅療養中で、一時は高熱で苦しんだとのこと。最近彼と食事をした共通の知り合いは濃厚接触者にあたるかどうか微妙で、保健所の連絡待ちです。

本日12月17日、東京は800人を超えました。昨日が過去最高の678人でしたから700人台はあるかも……と思っていたんですが予想をしのぐ勢いです。

みなさん、お気をつけください。

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あいかわらず積ん読解消月間です。

最近読んだ本から、松岡亮二『教育格差』(ちくま新書)の感想を。

親の学歴が社会的経済地位(SES)の高さにつながり、小学校に入る前から子供の学力についた差がどんどん拡がり、最終学歴に影響し、格差が再生産される──という身も蓋もない事実が統計で徹底的に検証された本でした。同時に、地域差も子供の学力に関係します。ママ友同士のプライド争いに巻き込まれる文教地区のお坊ちゃまお嬢ちゃまは勉強しなきゃならないプレッシャーを感じるでしょう。

この本で何度も言及され苅谷剛彦の本を読んでいる私には復習している気分でしたが、「日本はみんな公平にチャンスがあり、努力すれば報われる」と信じている方には刺戟的だと思います。私たちが育った高度経済成長期は「学歴偏重社会」と言われ、階層が見えにくかったんですが、苅谷氏も書いているとおり、そのころだって親の収入と学歴は関係があり、階層の逆転は難しかったのです。

 生まれ育った家庭と地域によって何者にでもなれる可能性が制限されている「緩やかな身分社会」、それが日本だ。原稿の教育制度は建前としての「平等」な機会を提供する一方、平均寿命が80歳を超える時代となっても、10代も半ばのうちに「身の程」を知らせる過程を内包している。「生まれ」による機会格差という現状と向き合い積極的な対策を取らなければ「いつの時代にも教育格差がある」ことは変わらず、わたしたちはこの緩慢な身分制度を維持することになる。それは、一人ひとりの無限の可能性という資源を活かさない燃費の悪い非効率的な社会だ。(16ページ、太字は引用者)

緩やかな身分制度──これが私のテーマのひとつなのです。平等分配的な狩猟採集社会と比較して明瞭になったことのひとつが、階層や差別の問題なのでした。それらは「いつの時代にもあるもの」ではなく「いつか生まれて固定化したもの」なのです。

戦前の伝記や小説を読むと、学校の先生が訪問してきて「お子さんは優秀だから上の学校に行かせてください」とすすめてくれるのに、父親が「うちはごらんのありさまで」と言って貧乏を理由に進学させなかった話が山のようにあります。浦山桐郎監督、吉永小百合主演の映画『キューポラのある街』(1962)の時代もそうだったのです。本書にあるとおり、1970年代になって「大衆教育社会」がやってきて一瞬目立たなくなりますが、階層と学歴の関係は潜在的に継承され、格差拡大でまた顕著になっています。勉強をしたこともない世襲議員が総理大臣になったりするのにネ。

では、教育格差をどうすべきか……についても熱をもって書かれていますが、研究知見が積み上げられてない段階でもあり決定的な対策が提示されているとは言えず、隔靴掻痒の感は否めません。「おわりに」には著者の煩悶が語られますが、その思いは私も共有しているつもりです。個人的には、拙速に教育システムをいじるのではなく、政府が格差是正に着手するのが急務だと感じています。つまるところ再配分です。

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ここからは個人的なことになります。読みながら、自分が大学に行ったのはレアケースのような気がしてきました。前もって書いておきますが、学歴を資格(人的資本)と見做すのは嫌いです。どこの大学を出たかよりも、本来は大学で何を学び何を考えたかのほうが重要なはずですから。

私は両親ともに高卒(私の世代は父親が大卒である割合は14%とのこと)であり、うちの蔵書も少なかったんです。父親は生涯一冊も本を読まなかったのではないかな。子供には本をよく買ってくれました。教育熱の高くない郡部の新興住宅地に暮らしました。まわりの子供も似たような感じで、漫然と町の公立中学、公立高校に行くのだろうと考えていました。

うちの親は、子供は平凡でいいと考えていて「勉強しろ」と言われたことが一度もありません。テレビ見たり草野球したり本を読んだりしていましたが、仲のいい友だちが受験すると言って塾に行きはじめたので、なんとなく私も通いました。

合格した六年一貫の私立校にはたしかに金持ちが多かった。中学の最初のテストで全体の真ん中くらいだったことで勉強する気が失せ、遊ぶ日々。結局、二浪もして大学に入りましたが、なんとか大学に行かなきゃと考えたのは、高校の進学率がほぼ100%だったからです。

私の場合、格差が比較的見えにくい時代(一億総中流社会といわれたころ)に育ち平凡なサラリーマンでも子供を東京の大学にやれたこと、親が黙って金だけ払ってくれたこと、大学に行かざるをえない雰囲気にいたこと──時代や環境に恵まれて大学教育を受けられたのでした。

数年前、大学の先生が退職するにあたり幹事をやりましたが、ここんところ地方出身者が激減していて驚きました。おいそれと地方から遊学できる状況にないのです。