狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

自民党(とくに安倍派)の裏金問題は時代劇

「あいつもか、あいつもか……」

自民党とくに安倍派の裏金問題が、燎原の火みたいに燃え広がっています。昨年夏、旧統一教会と関係を持った議員(とくに安倍派)が次々と明るみになったのとよく似た現象です。

安倍派議員は当選回数などに応じて政治資金パーティのパー券収入ノルマがあり、ノルマ以上に集まったカネは自分のものになるシステムだったらしい。キックバックを収支報告書に記載すればいちおう問題ないのに、安倍派は「記載するな」と指示していたそうです。増税を画策する与党政治家が、非課税の裏金をプールしていたのです。他にも集金システムは存在するかもしれません。

本来、政府の大きな役割のひとつは、資本主義の暴走に歯止めをかけて大企業や富裕層に税の応能負担をさせ、再配分することです。しかし、現在は経済と一体化した政府が正反対のことをしています。自民党は次の選挙に勝つために稼がねばならない(カルト宗教とも手を結ぶ)し、大企業は政治家に支えてもらいたいからです。Win-Win。一般市民のことなど、知ったこっちゃありません。

経団連(中小は含まれません)会長が、今月4日の記者会見で企業による政治献金の目的を問われて「民主主義の維持にはコストがかかる。政党に企業の寄付(献金)をすることは一種の社会貢献だ」と発言したと報じられました。

大企業は男性高齢者がトップに君臨する古い体質の組織です。自民党に献金することで利権をつくってきました。自民党と経団連はタッグを組んで社会のルールを変えて稼げるシステムをこしらえ、互いに融通しあっているのです(これが新自由主義)。経団連が裏金づくりを批判するはずがありません。

よく、安倍晋三元首相は海外に巨額の税金をばらまいたと批判されます。彼らが下心なしにカネを使うはずがありません。ある国のインフラ整備に巨額の税金を落としたとして、その事業をどこの国の企業が受注し、その企業がどの国のどの党に献金するのでしょうか……?

「日本はなぜベンチャーが育たないのか」
「日本はどうして女性の地位が低いのか」

時代に追いつけず、ほんとうなら傾くはずの企業が政府に保護されるため新興企業が育ちません。自民や大企業の、考えをアップデートできないお爺さんたちは「男」という利権を死守して女の進出を阻みます。組織論だのリスキリングだの生成AIだのをいくら語っても、もっと上にある大きなフレームが変わらなければどうしようもないのです。

振り返れば、有権者は「ほかよりましだから」と自民党に票を投じる始末……。

経団連会長は《企業団体献金が税制優遇に結び付くなど政策をゆがめているとの指摘に対しては「世界各国で同様のことが行われている。何が問題なのか」と正当化した》り、《「化石賞」に日本が4期連続で選ばれたことについては「現地では大したことはなく、日本で騒いでいるだけ」「一種のショー的なもの」》と発言したそうです。おじさんたちは貧しい日本の少ないパイを争うことに汲々として、世界標準から取り残されてしまいました。こんなガラパゴス社会で、少子高齢化の改善や景気回復やイノベーションが起きたら奇跡です。

一部の受益者を優遇することで安定的基盤をつくる自民党──。言わずもがなですが、憲法が定めるとおり公務員は全体の奉仕者(憲法15条)であり、公務員には国会議員も含まれます。

逆進性の高い消費税をアップして大企業の法人税を引き下げる一方で、「庶民が消費しないから経済がまわらない」なんてのたまう政治組織は、国民を殺しにかかっているとしか思えません。庶民は五公五民の重税に苦しみ、物価高騰にあえぐ。世襲大名やその取り巻きは年貢を還流してうまい汁を啜る。裏金づくりをしていた大名たちは、さらに年貢を上げると言います。庶民は有権者の自覚がない。大名批判なんてしたときにゃ、「お、お上に逆らうもんじゃねえ」……時代劇だ。

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ところで、自民安倍派の裏金スキャンダルを大手メディアが意外に報じているらしい。ジャーナリズムが機能するなんて昨今の日本では珍しい。

日本政治を操っているのはアメリカだと孫崎享『戦後史の正体』に書かれています。アメリカに尻尾を振らない政権は短命だそうですよ。与党に逆風が吹いているのもウラがあるんじゃないかと疑っちゃいます。

もう一度、利他の話。

ところで、『「みんな違ってみんないい」のか?』に、利他に関する記述がありました。メモのつもりで。

最後通牒ゲームなどいろんな実験で、《人間は、自分の利益をなげうってでも、利益を独占しようとする「不正な人間」を罰しようとする》ことがわかっています。

また、人間は《他人と助け合うことに大きな喜びを感じる感性》を持っています。

不正に怒りを感じたり、利他的な行動をとることは、進化倫理学の謎でした。

アメリカの進化生物学者リチャード・アレグザンダーは「間接互恵の理論」(1987)を唱えました。間接互恵(親切にされたら、親切でお返しする)をする動物もいますが、人間は、見返りがなくても他人に親切にする場合があります。

アレグザンダーの説明は──《要点を一言でいうと、直接的な見返りが期待できない相手に親切にすることで、社会の中での評判がよくなるので、結局のところその人の利益になるというのです》。

 付言すると、見返りを求めない利他的行動が評判によって利益になるということは、そのような行動を取ろうと思う本人に自覚されていることではありません。むしろ、「よい評判を広めるために親切にしよう」と思っている人は、たいていの場合、そう思っていることが見抜かれてしまい、かえって評判を落とすものです。それゆえ、他人に親切にすることに無条件に喜びを感じるような感性こそが、進化してくるのです。人間には、人を見たらわけもなく親切にしたいと思う傾向があるということです。(116ページ)

以前、進化生物学者ロバート・トリヴァースが、利他的行動の進化に関して「互恵的利他主義」を唱えたのが1971年だと読みました。

 

『「みんな違ってみんないい」のか?』

「おいおい、多様性に喧嘩売ってんのかよ」と、書店でツッコみ(もちろん心の中で)、でもまあ勝負してやるかと購入した本、山口裕之『「みんな違ってみんないい」のか?──相対主義と普遍主義の問題』を読みました。ずいぶん前の話ですけどね。

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《どうしたら多様な個々人が抑圧されないようにしながら多様な人たちが連帯できるのか》について書かれていました。

《「正しさ」は個々人が勝手に決めてよいものではなく、それに関わる他人が合意してはじめて「正しさ」になる》ともあります。 しかしながら、本書によると、世には「正しさは一つだけじゃない」といった言辞に溢れているようです。

──ここから少しややこしい、かも。

1960年代に構造主義が一世を風靡します。

レヴィ=ストロースやミシェル・フーコーが西洋文化を相対化していきました(=絶対的だった西洋中心主義の権威を失墜させたという意味です)。文化相対主義において、多様性の単位は文化という集団でした。「文化それぞれ」です。

やがて植民地独立、公民権運動、女性の権利、同性愛者らマイノリティが異議申し立てをおこないます。多様性が注目され、「人それぞれ」の時代が到来。そして、さきほど書いた《どうしたら多様な個々人が抑圧されないようにしながら多様な人たちが連帯できるのか》という問題が生じ、それを引き受けたのがデリダやドゥルーズでした。

一方、1990年代、多様性を求める声はアメリカ発の「新自由主義」にとりこまれます。新自由主義者は、個人の自由を尊重し、国家による介入を少なくします(いわゆる小さな政府)。 デリダやドゥルーズの思想が、個人の自由を尊重し、かつ平等な社会を模索していたに対し、新自由主義は容赦なく福祉切り捨てに舵を切ります。

フランス現代思想やカール・マルクスの思想は、抑圧された少数者の権利を保障しようとしましたが、91年、ソ連が崩壊すると、新自由主義(資本主義の暴走)が加速し、不平等な格差社会をつくりました。

日本では、鉄道民営化、国家公務員削減など、「個性尊重」と「自己責任」を旗印にいろんな改革をします。国家主導で「人それぞれ」主義=格差拡大を進めたのです。

1996年、小学校の国語の教科書に金子みすゞ「私と小鳥と鈴と」が掲載されます。「みんなちがって、みんないい」という一節で有名な詩です。同じころ、「正しい生き方なんて決まっていない」「答えは一つではない」「正しいかどうかは自分の感じ方で決まる」といった趣旨の歌謡曲が作られるようになりました。

こうして、「正しさは人それぞれ」というフレーズが、急速に日本中に蔓延していきました。この言葉は、一見すると多様性を尊重するよい言葉のように見せかけておいて、その実、個々人を連帯から遠ざけて国家にとって支配しやすいバラバラの存在にとどめておくのに都合のよいものたったのです。多様性を求める一九六〇年代の学生や市民の声は、権力にとってまことに都合のよい「正しさは人それぞれ」という形に骨抜きされて広まったのです。

──以上、第1章よりかいつまんで。「みんなちがって、みんないい」と「正しさは人それぞれ」は同じじゃないと思いますが、文科省がそういうふうに利用したのだとしたら、まあ、わからんでもありません。

大局的に見れば、人間はそれほどバラバラでもない(第2章)とも書かれています。そのうえで、この本は社会の「正しさ」について書かれているわけです。民主主義は熟議により合意形成をはかることですが、みんなが本当に「正しさは一つではない」と考えているなら、政府が議論もそこそこに強行採決をしたり、右派言論人が「あんたとはわかり合えない」と相手を切り捨てるのも理解できなくありません。あんたはBでしょ、私はAよ。

『「利他」の生物学』と『緑の哲学』

『「利他」の生物学』に教わったことのひとつ。

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植物の三大栄養素は、窒素、リン酸、カリウムです。以下、リンと窒素について。

リン──植物の根っこにはアーバスキュラー菌根菌が共生している。土のなかのリン酸はなかなか移動してこないため生育に支障が生じる。そのため、アーバスキュラー菌根菌が土中に広がり、リンを吸収してくれる。(今は、リン酸化学肥料に頼っているが、リン鉱石は限られている)

窒素──多くの植物は、落ち葉などが微生物によって分解された硝酸態窒素を使っているが、窒素成分が少ないところでは植物は育ちにくい。マメ科植物は根粒菌(バクテリアの一種)と共生し、待機中の窒素を土のなかに固定している。他の植物は、マメ科の植物の恩恵に与っている(空中の窒素を固定するハーバー・ボッシュ法により窒素肥料が開発される前は、飢饉が起きることもあった) 。有機栽培では、マメ科植物を植えると、次に植えた作物の収量が上げる。日本でも、ウマゴヤシやクローバー(シロツメグサ)が畑を肥やすと知られていた。

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ほうほう、そういうことか──。

福岡正信は米や麦をクローバーの種と一緒に播いていました。

緑肥草生の米麦作というのは、クローバーやレンゲの中に、米や麦を直播する方法で、豆科植物と禾本科植物の共生栽培である。(福岡『緑の哲学』83ページ)

クローバーもレンゲも豆科の植物なんですね。「豆科植物と禾本科植物の共生栽培」をする理屈を福岡氏は書いてなかったと思うのですが、窒素の確保のためだったのか。本を読んでいると、別の本と予想外につながることがあります。好きなんですよ、そういうの。

『「利他」の生物学』

10日前にも触れましたが、狩猟採集生活の本を読んでいると、「利他」というテーマにも突き当たります。

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いろんな動物で、血縁者のあいだでは、互いを利する行為が見られます。しかし、遺伝子を残すことが生き物の目的だとすると、近親者を守るのは利己的な行為だといえます(ドーキンスの「利己的な遺伝子」)。では、生物には、利他的行動はないのでしょうか。

生物間の共生には、二種類あるそうです。
互いにメリットがある共生=相利共生(利他的行動に近い)
片方だけにメリットがある共生=片利共生(利己的行動に近い)
どちらも、いろんな事例を挙げて解説されます。

卑近な例で言えば、花と、花粉を運ぶ虫の関係は、相利共生です。利他的だとはいえ、互いにメリットがあるわけですから、私が考える完全な利他(損得勘定抜きの行動)とは言えません。でも、人間は見ず知らずの他人にも親切にしますよね。

(略)人間では脳の著しい進化により、情報処理能力が格段に高まり、同時に複雑な感情を持つようになっています。その結果、動物には見られないような高度な利他的行動が古くから見られます。以前、ネアンデルタール人の化石から腕と脚が不自由で片目が失明している人のものが見つかりました。化石を調べてみると、その人物はどうやら不自由になってからも数年間生存していたと推測されたそうです。こは仲間から食料を分け与えられ、敵からも守られて生存していたことを意味します。このような化石の証拠から、人類がそのころすでに利他的行動を行っていたと推測されます。
 こうした人間の持つ発達した利他的本能は、人間が他の種に対して優位に立つ原動力、すなわち子孫をより多く増やすためのアドバンテージになったといえます。(略)

すなわち人間に見られる利他的な行動は《遺伝子にとっては増殖するための「利己的行動」とみることができます》と言われると、メタレベルではやはり利己的行動なのか──と苦笑せざるをえません。まあ、そのあたりが正解なのかなあ。

しかし、人類はせっかく進化の過程で利他性という "武器" を獲得したのですから、種の生存戦略としては、それを大事にするのが一番です。利己的な「競争」よりも、利他的な「共生」をいっそう大切にする社会の構築を模索したいものです。

まったくその通りです。戦争反対。

知性、利他のことなど

長沼毅「ヒューマニティの未来」(「現代思想」特集=変貌する人類史 2017.6)から、メモ。

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スタンフォード大学のジェラルド・クラブトゥリー(1946〜)の論文「われわれの脆弱な知性」(2013)によると、人間の知性や感性は2000〜6000年前(もっとも考えられるのは5000年前)にピークに達し、それ以降は衰退し続けているらしい。

知性や感性の遺伝子は、狩猟採集生活におけるさまざまな環境圧によって磨き(選択と淘汰)がかかってきたのに、いったん文明生活に慣れてしまうとそれらの遺伝子に突然変異(多くは悪い突然変異)が起きても、もはや高い遺伝子を除去するような淘汰圧がなく遺伝子プールに残ってしまうからだと説明している。

クラブトゥリーは遺伝子の突然変異について論じていたが、ブリュッセル自由大学のマイケル・ウッドリーはさらに選択(淘汰)を加味した論文「われわれの知性はどれくらい脆弱か?(以下略)」(2015)で、次のように書いている。

《これによると突然変異による知能指数の低下は10年で0.84ポイント。淘汰によるぶんは0.39ポイント。両方を併せると1.23ポイントになることが提示された》(これって、10年経つごとに、知能指数の平均が1.23ずつ減るということかな) 。また、高学歴の人間は子供の数が少ないことがわかっていて、高学歴遺伝子というものがあるとしても、社会的に淘汰されていく。(そのうえ、安倍政権下では、高学歴は報われないけどね、と続く)

──以下は感想。オルテガが、深くものを考えないバカな大衆が威張り始めたと書いたのが100年ほど前のこと。私が知る限りでも、ここ数十年の日本社会は知性が見下されるようになり、デタラメでもいいからポンポンと言葉を繰り出す能力(コミュ力というんだそうだ)のほうが偉いとされています。そして「あなたの意見は?」と聞かれたら、誰かの意見をコピペして発散するのです。しんどい。

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1970年代、ゲーム理論のメイナード=スミスやジョージ・プライスは、タカ派・ハト派だけじゃなく、報復派、いじめ屋、探り報復派(相手の出方で態度を決める)、持久戦派などに社会の構成員を分け、そこに利己的・利他的という要素を加えて進化ゲームをやった。報復派はゲーム理論では「しっぺ返し戦略」と呼ばれる。やられたらやり返すが、自分からは裏切らない。結果、利他派、報復派、探り報復派の入り交じった集団が「安定した均衡」を達成した。利他的行動をとらせる遺伝子は(道徳的根拠ではなく)突然変異によって獲得され、淘汰されることはなく、遺伝子頻度を増す場合もある。

──感想。私がぼんやり考えていることと同じです。ルソーは狩猟採集民のレポートを読んで人の本質は善だと言いました。いや、そうではなく、利己的で暴力的で独裁的な社会は長続きしなかったのではないかと感じるのです。それが証拠に、狩猟採集社会の子供は食べ物を独占したがりますが、親の指導によって平等分配を学びます。何十万年かけて生みだされた生活の知恵ではありますまいか。 

現代日本は、みながカネ儲けに齷齪して、リスキリングで人的資本を高めようなんてバカバカしいことやってます。利己的資本主義の社会に未来はあるのかな?

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同じころ、進化生物学者ロバート・トリヴァースは、利他的行動の進化において「互恵的利他主義」(相手に優しくするのは相手が優しくしてくれるからだ)が重要だと唱えた。助け合いの選択(戦略)である。互恵的利他主義において本質的な敵は嘘であるから嘘つきを見抜く能力が進化する。と同時に、嘘をつく能力もやはり進化するだろう。 自分は嘘をついてないと思いこみ、嘘発見器に引っかからない自己欺瞞に長けた人物も出てくる。皮肉なことに、自己欺瞞を生みだしたのは互恵的利他主義であった。

──互恵的利他主義(見返りを求める利他主義)は、損得を計算するという点でとても資本主義的です。見返りを求めない利他というものもあると私は信じたい。とはいえ、互恵的利他性がウソや自己欺瞞(サイコパス=反社会性パーソナリティ障害)を生んだという仮説も魅力的です。

道路を歩行者に返せ(後編)

吉見俊哉はオリンピックの「より速くより高くより強く」は資本主義のモットーと同じであり、スポーツも資本主義も非人間的になっていくと批判しています。私も同感。リニアモーターカーなんて要るのはなぜ? 空き家がたくさんあるのにタワマン建てる理由は? これからは「より遅くより低くよりしなやかに」──という人間的な暮らしを取り戻したい。

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数週間前、タブレット純の番組で、南こうせつの幻のデビュー曲『最後の世界』が流れました。数百枚しか売れなかったそうです(ネットで検索しても音源が見当たりません)。交通事故で死んでいく青年のモノローグでした。「おかあさんさようなら」とか「天国を探して」とかいう歌詞だったはずです。

『最後の世界』と同じ1970年(昭和45年)発売の大ヒット曲、左卜全とひまわりキティーズ『老人と子供のポルカ』には「やめてけれジコジコ」という歌詞があります。犠牲になるのは老人や子どもだから、事故はやめてくれという意味です。自動車事故といえば、成瀬巳喜男監督の映画『ひき逃げ』が思い出されます。1966年(昭和41年)公開らしい。

50年くらい前は、公害や事故のことで、クルマ社会を批判する声が今より多かったと思います。その一方、マイカーはみんなの憧れでした。半世紀前のお父さんたちはクルマと一緒に写真に収まっています。自動車業界は日本の基幹産業ですからクルマは日本の誇りであり、繁栄の象徴でした。こちらの記事によると、自動車の保有台数(バスやトラック、小型二輪ふくむ)は1973年くらいに2000万台、いまは4倍に増えています。

広島出身の私は、父親はマツダに勤めていたこともあり、クルマ社会を当然だと考えていました。ところが、走るようになって感じるのです。

「クルマは威張りすぎじゃないか?」

住宅地をジョギングしていてクルマがやってきたら、道の隅っこに寄らなければいけません。排水のため斜めになっていたりするから走りづらい。歩道は街路樹の根でふくらんでいることがあり、つまづきそうになったことが多々あります。車道を走れば気持ちいいのに……。優先されるべきは、歩行者やランナーのはずではないか。日本橋や六本木交差点に限らず、首都高がフタをした街並みを見よ。ビルや家が影に覆われて、なんとも薄暗い。

歩行者天国を歩いたり都会のマラソン大会を走ると、車道の真ん中を進めて痛快ですが、いや待てよ、道ってもともと歩行者のものではないのか?

イヴァン・イリイチ『コンヴィヴィアリティの道具』(1973年)は偉いもので、産業主義が環境や人類を滅ぼすといい、現行の学校や病院と同様、自転車以上に速い乗り物は要らないと書いています。道路(とくに高速道路)だって不要だというのです。たとえばこうあります。

《自動車は高速道路を要求する機械であり、高速道路は実際は選別的な装置であるのに、公益事業のような装いをまとっている》《それ[自動車]が非効率的なのは、高速とよりよい輸送との強迫的な同一視のせいなのだ。(略)より高速を求めるための口実も精神の病の一形態なのだ》。ほら、「より速く」は病気なのです。

道路建設が公益事業のふりしているというのは、宇沢弘文『自動車の社会的費用』(1974年)の問題意識と通じます。宇沢は自動車の社会的コストを試算し、受益者(クルマの所有者や運転手)が負担すべきだと提案しました。

同氏は『社会的共通資本』(2000年)で、事態は悪化したと言います。自動車道路の建設は自動車産業時代の発展に寄与し、関連産業の雇用形成を誘発し、日本経済全体の成長を促進する効果は確かにありました。《もともと、人々の精神構造のなかには、自動車の普及が、社会の進歩を示すもっとも重要な尺度だという誤った考え方があって、日本における自動車道路の建設が歯止めのないかたちで進行していった背景には、この考え方がときとして支配的であった》からです。

宇沢はクルマ中心の社会を推進したことで《政治的フェイボリティズム[註=えこひいき]を巧みに利用して自民党を中心とする専制体制を維持》してきたとも指摘。クルマを売って道路を建設することは、産業や政治と有機的に絡み合いつつ、自然を破壊し、歩行者の人権を侵害し、地球温暖化を招く、資本主義の象徴でした。

ちなみに、宇沢氏はジョギング愛好家でした。クルマ社会批判とは関係ないそうです。

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都会では、主要幹線道路でない道路を減らせばよいのではないか。緊急車両が通れるスペースを残してアスファルト引っぺがして樹を植えれば、夏の暑さもすこしはゆるむし、子どもは公園に行かずとも鬼ごっこができます。公共交通機関を充実させればよい。そんな街にならないかな。

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余談。私もガチギレですよ。主客転倒してないか? 道路は誰のものなのか。