狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

E・M・トーマス『ハームレス・ピープル』

店名は内緒ですが、ある古本屋には人類学関係の本がたくさん置かれています。そこで、E・M・トーマス『ハームレス・ピープル──原始に生きるブッシュマン』(1977、海鳴社、原著は1959刊)を見つけたのでした。

エリザベス・マーシャル・トーマスの母ローナ・マーシャルはアメリカの人類学者で、カラハリ砂漠に住み、当時まだ詳しく研究されていなかったブッシュマンをフィールドワークしました。エリザベス・M・トーマスもまた、1950年代にブッシュマンと暮らし、『ハームレス・ピープル』を書いたのです。タイトルを直訳すれば、「無害な人びと」となります。

彼女には『トナカイ月』という、旧石器時代を描いた長編小説があります。主人公の少女が物語の冒頭に死んで霊になるという不思議な小説で、細部は忘れましたが、とても良い読後感でした。でも、少し前に読み直そうとしたら、あまり狩猟採集民っぽくなかったのです。そもそもカレンダーの観念がない(だから年齢の観念もない)のに、月に名前がついているということからして何やら疑わしい。この人はブッシュマンの何を見ていたのだろう、いずれ『ハームレス・ピープル』で確かめなきゃと探していたら、古本屋に並んでいたというわけです。本の状態はいいのですが、背が灼けていました。見落とさなかったのはナイスプレーでした。

一読したところ、『ハームレス・ピープル』はきちんとした民族誌です。前半はキクユ族(キクユ族の狩猟採集民っていたんだ)、後半はクン族のブッシュマンとともに著者は暮らしています。キクユ族の女性2人が1時間で7キロの道を歩いてきたという記述にはびっくりしました。未舗装路ですよ。

以下は、後半の話。旧知のクン族の男・ちびのクウィとその家族を見つけました。優秀なハンターであったちびのクウィは毒蛇に嚙まれ、片足が壊死しているのでした。一緒に訪ねた仲間のブッシュマンたちは彼の心の痛みを分かちあい、夜は悪夢にうなされていました。

ブッシュマンは、不具者とか、旅に耐えられない老人とか病人を見捨てると言われてきた。しかし、これは嘘である。

町の病院に行き、足を切断して義足をつけるほかなく、彼をトラックで運ぶことにします。ちびのクウィの妻はつきそいに町にいくので、町でのしきたりをアドバイスし、「あちらでは上半身裸でいてはいけない」と服をプレゼントしました。そのことで、トラブルが巻き起こります。草で出来た小さな家から出ると、女たちが聞き耳を立てていて、「自分たちには何をくれるのか」とエリザベスにしつこく迫ったのです。

分配が重んじられる社会なので、ひとりにだけモノをあげる行為は非難されます。「この場合はしかたがないのだ」と言っても通じません。独占欲を押さえてみんなで分配するのは、争わないための生活の知恵なのです。

分配をめぐって口喧嘩になったシーンはほかにもありました。平等分配主義は狩猟採集社会の平和の象徴とされますが、均衡を保つために細心の注意を払っているのでしょう。

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同時期にイギリスのヴァン・デル・ポストがブッシュマン(サン族)の記録映像を撮り、半分冒険小説風の『カラハリの失われた世界』(ちくま文庫)も刊行しています。つまり、1950年代がブッシュマン研究の始まりなのです。

小国善弘『戦後教育史』

10月はいろいろあって90kmしか走っていません。来月は100kmだ(苦笑)。仕事が落ちついてきたので、ここ1、2ヶ月考えていること・読んだ本を連投します。

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まずは、小国善弘『戦後教育史』(中公新書)について。

教育に関する一般書、見ればなぜか買っちゃうんですが、戦後教育について詳細に書かれていて、知らないことが多かった。

私はかねがね「学校は社会の歯車(もしくは奴隷)をつくるところ」と批判していますが、この本にも戦前の学校は《強い兵士を軍隊に供給する》ため、戦後の学校は《優秀な労働者を産業界に供給するため》に機能していると書かれています。 1950年ごろ、産業界(財界)が産業振興のため理科室をつくれと要求したり、中央教育審議会設置をつくらせたりしたのを皮切りに、ずっと教育に口出ししている模様です。どうやら日本は教育を産業のための投資と見なし、文化や公共に資する人間を育てるという発想はないらしい。

その後、学校はどのようにして優秀な労働者もしくは社会の歯車もしくは奴隷をつくる場所になったのでしょうか。

障害者の排除、勉強ができない生徒の排除(特殊学級に入れる)、政治的活動の禁止、日教組の衰退、批准した「子供の権利条約」を無視、ゆとり教育は教育の民間委託(新自由主義の一環)に過ぎなかったこと、日の丸・君が代の強制、道徳の教科化、教師の内心の自由を制限しつつ負担を増やすこと、全国学力テスト、発達障害なるものの出現(発達障害は病名ではなく政令で定められた障害)……。

1984年、総理府が設置した臨時教育審議会のメンバーが個人的には興味深い。ダイエー中内功、ブリジストンサイクル石井公一郎ら財界人、香山健一・公文俊平ら新自由主義を標榜する学者、山本七平・渡部昇一ら自称保守にして歴史修正主義的な作家。のちに「新しい歴史をつくる会」の中心メンバーになる高橋史朗。 名前を見ただけで、学校がどんな方向に進んだかわかります。

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ごく最近の話をしましょう。

2007年に始まった全国学力テストにより学校間、地域間の競争が激化。自治体が成績のいい学校を優遇するようになると、小中学校に「スタンダード教育」や「ゼロトレランス方式」という考え方が広まったそうです。

スタンダード教育とは、子供や教師や保護者に対して細かい決まりを設けることらしい。たとえば、生徒に、机のうえの教科書・筆箱・ノートの配置を決めたり、姿勢などを細かい指示します。私だったら窮屈でしかたない。

ゼロトレランスは「寛容度ゼロ」を意味します。クリントン政権以降、アメリカで行われている教育理念&実践だそうで、エスニック・マイノリティや障害児、低学力の子供などが小さな逸脱を理由に排除され、教育を受ける権利を事実上奪われていると言います。日本では採用している学校はまだ少ないようですが、広島・福山のある中学校では、学校生活はもちろん校外での行動ふくめ生活全般に事細かなルールがあり、違反の程度に応じて、説諭、反省文、保護者への連絡、別室指導、警察への通報・逮捕などがマニュアル化されていると知りました。

社会にダイバーシティ(多様性)を、とお題目を唱えながら、戦後の学校が行き着いた先が寛容度ゼロって……。歯車製造工場に耐えられない子供は自殺したり、発達障害とレッテルを貼られます。 安倍政権は、子供の内心に踏みこんだり、親学を推奨したり、教育で特定の企業を儲けさせたりもしました。

本書には学校再生の可能性を模索もしています。仮に「子供たちが幸せになるための学校」の実現が可能だとしても、まずは自公政権を下野させねば……。

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↓ 日本とはまったく違うスウェーデンの教育についてはこちらを。

↓ 日本の教育について書いた良書をもう1冊。

 

国立民族学博物館

大阪で一泊。朝4時ごろ目が覚めたので、時間をつぶすのに骨が折れました。御堂筋線とモノレールを乗り継いで、目的地へ。ミャクミャクくんがラッピングされたモノレール車両がありました。あんなヘドロの妖怪みたいなのを、みんな毎日見せられているなんて、大阪のひと可哀想。

この日も炎天下です。万博公園にやってきました。今回のプチ旅行のメインこそは、何を隠そう……ジャジャーン!

違う違う、太陽の塔を見たかったわけではないんです。(何年前でしょうか、大阪を35kmくらい走ったとき、見に来たことがありました)

折角なので脱線します。私は1970年11月に5歳になりましたが、大阪万博の会期中は4歳でした。賑わう万博の様子を見るたび行きたくてたまらなかったんです。赤軍の男性が太陽の塔の、上についているほうの顔の目玉に居座ったことありましたよね。いわゆるアイジャック事件。怖くないのかなあ、とワクワクしながらニュースを見ていました。

今は万博みたいなお祭りの喧噪は避けたい。オリンピックと同じく、万博も資本主義が生んだバケモノです。高度経済成長期には明るい未来を夢見ていられたのでしょうけど。ちなみに、万博関連の本では、吉見俊哉『万博幻想──戦後政治の呪縛に教わることが多かった。

さて、旅の本当のメインはこちらです!

国立民族学博物館(HP)。文化人類学ファンならば、1度は来なきゃいけないところだと思っていました。万博公園は9時半の開園時間すぐに入ったんですが、博物館のオープンは10時。その30分が暑かった。

世界中の民族の文化──装飾品・民具・工芸品──などが展示されています。狩猟採集民は弓矢や槍くらいしかないので展示物が少ないのはしかたありませんが、世界中の遊牧民、農民らの暮らし方がよくわかります。楽器はすごい数でした。チャルメラだけでも、どんだけ収蔵されていることやら。

……3時間経過……

きちんと見たら1日かかるというのは本当ですね。映像などを「つまみ見」して時間短縮したつもりでしたが、見終わったら13時を回っていました。

個人的に感激したのは、吉祥寺の喫茶店「もか」の店主・標交紀(しめぎ・ゆきとし)さんのコレクションを見られたこと。店の奥のケースに飾られていた世界のコーヒーに関する道具が寄贈されたと何かの記事で読んだっけ。豆を炒ったり挽いたりする道具もたしかに民族学的資料です。「もか」の看板もありました。美味しいコーヒーだったなあ。行くと、必ず2杯飲んでいました。

館内のレストランで昼食。ただのファミレスでガッカリ。ロボットが配膳していました。レストランから出たところで、人類学者I先生とすれ違いました。放送大学で氏の講座を聴き、期末のレポートでは「特A」の成績をつけてくださいましたが、人見知りだもんで挨拶せず。妻への土産を数点買って(ひとつは、どこかの国の木版プリントのハンカチ)、新大阪駅に向かいました。

おしまい。

通天閣から、大阪ディープサウスへ。

9月3日、オダサク散歩──炎天下2万歩コース──のあと、クタクタになって安ホテルにチェックイン。この日、昼メシになにを食べたんだっけな……まったく思いだせない私。朝・昼は抜いたのかもしれません。(追記=朝、早く出かけすぎてしまい、広島市内のファミレスっぽいところで午前8時頃朝食を食べたら、ずっとお腹が空かなかったのでした。夜は20時頃、ホテル近くの町中華で。案外うまかった)

ホテルは新今宮近辺です。少し寝ようかと思ったのですが、うまく寝られず、しかたねえ、通天閣にご挨拶だ。

大阪ディープサウスのお勉強をしている身にとっては、現役通天閣と初代通天閣の写真は──その下で寝ている男性含め──興味深い。

1903年(明治36)、大阪で第五回内国勧業博覧会が行われました。凱旋門とエッフェル塔を合体させたような造形の大林高塔を建てます。これを鉄筋にして1912年(明治45)に完成したのが、初代通天閣です。博覧会当時から一帯は新世界とかルナパークと呼ばれ、一時期賑わいます。すなわち、戦前の大阪を舞台にした物語に出てくるランドマークはこちらをイメージすべきです。たとえば、村田英雄「王将」の「空に灯がつく通天閣に俺の闘志がまた燃える」はこれなんです。

内国勧業博覧会開催の目的のひとつは、堺筋(日本橋筋)沿いに拡がっていた近世以来の貧民窟、いわゆる長町スラムを一掃することにありました。天皇が来るのに、あんな場所を通すわけにはいかない、というのです。警察とヤクザが結託して貧民窟を毀していき、下層民衆は南方面に移動して釜ヶ崎が形成された、というのは(異論はあるものの)よく知られている説だそうです。

初代は1943年(昭和18)に解体されました。現在の通天閣は、戦後、建て直されたものです。通天閣の南には大阪ジャンジャン横町があり、外国人観光客がたくさん。有名な『三桂クラブ』も賑わっていました。織田作之助「六白金星」や朝ドラ『ふたりっ子』では通天閣の地下の将棋道場が出てきました(阪本順治監督の映画『王手』にも出てきたかな)が、今はありません。

なおも歩いて、飛田新地へ。

大正初期、衰退する新世界に、「大正芸妓」と呼ばれる酌夫(やとな)が出現、花街になって賑わいますが、行政は取り締まりに悩みます。大正芸妓を取り締まる一方で、1916年(大正5)年、飛田への新遊廓設置を決定します。さらに、1912年(明治45)1月の「ミナミの大火」により難波新地が灰になり、その代替地として飛田が栄えることになったのだとか。

──と、勉強したので、西成方面をぐんぐん歩いて遊廓に行きました。いわゆるところの「ちょんの間」です。何十軒も並んでいる料理屋(の体)の玄関先で、遣り手婆と女の子が「寄ってって」と招くんです。噂には聞いていたけど、華やかな女の子たちばかりだこと。いちおう、料金などを調べていたので、夕食代だけ持って、ホテルにおカネを置いてきました。そうしないと、どこかの店に引き寄せられたかもしれません。

ここにも外国人観光客がいました。そりゃそうだ。アベノハルカスに行くより、新世界や飛田新地のほうが面白いには違いない。ただし、家族連れはさすがに見かけなかった。

翌朝、日の出前に起きて、通天閣あたりを散歩しました。

オダサク文学散歩

9月3日(日)に、広島から大阪へ。新大阪から梅田に行きました。人が多いのう。

いま、大阪と資本主義に関する大著を断続的に読んでいて、1章ごとに関連する書籍や映画をあたっています。暑い暑い真っ昼間、地下鉄・谷町四丁目駅で降りて大阪歴史博物館へ。……難波京のことは面白かったけど、まあ、行っただけです。

日中は、織田作之助文学散歩です。電車に乗り、谷町九丁目駅へ。

まずは生國魂(いくたま)神社で織田作之助像を拝見。(最近よく思うんですが、鳥居をくぐるさい、みんなお辞儀をするんですね。私の若い頃はそんなことしなかった。参道の真ん中は神様の道だから歩くなとか、二礼二拍手なんとやらとか、おそらくここ数十年で広まった謎の伝統でしょう。私と、ホテル帰りらしいカップル──周辺はホテル街だったんです──はそんなことしなかった。カップルは、コインパークの近道として神社のなかを通過していた模様です)

オダサクは、生國魂神社近くの河童横町(ガタロよこちょう)で育ちました。

大阪メトロ谷町線を挟み、東側は高台、西側は下り坂になっています。ガタロは、戦前その高台にあった貧乏長屋でした。上町台地が下町だと、オダサクも書いています。

 大阪は木のない都だといはれてゐるが、しかし私の幼時の記憶は不思議に木と結びついてゐる。
 それは生国魂神社の境内の、巳さんが棲んでゐるといはれて怖くて近寄れなかつた樟の老木であつたり、北向八幡の境内の蓮池に落(はま)つた時に濡れた着物を干した銀杏の木であつたり、中寺町のお寺の境内の蝉の色を隠した松の老木であつたり、源聖寺坂や口繩坂を緑の色で覆うてゐた木々であつたり──私はけつして木のない都で育つたわけではなかつた。大阪はすくなくとも私にとつては木のない都ではなかつたのである。
 試みに、千日前界隈の見晴らしの利く建物の上から、はるか東の方を、北より順に高津の高台、生玉の高台、夕陽丘の高台と見て行けば、何百年の昔からの静けさをしんと底にたたへた鬱蒼たる緑の色が、煙と埃に濁つた大気の中になほ失はれずにそこにあることがうなづかれよう。
 そこは俗に上町とよばれる一角である。上町に育つた私たちは船場、島ノ内、千日前界隈へ行くことを「下へ行く」といつてゐたけれども、しかし俗にいふ下町に対する意味での上町ではなかつた。高台にある町ゆゑに上町とよばれたまでで、ここには東京の山の手といつたやうな意味も趣きもなかつた。これらの高台の町は、寺院を中心に生れた町であり、「高き屋に登りてみれば」と仰せられた高津宮の跡をもつ町であり、町の品格は古い伝統の高さに静まりかへつてゐるのを貴しとするのが当然で、事実またその趣きもうかがはれるけれども、しかし例へば高津表門筋や生玉の馬場先や中寺町のガタロ横町などといふ町は、もう元禄の昔より大阪町人の自由な下町の匂ひがむんむん漂うてゐた。上町の私たちは下町の子として育つて来たのである。

──「木の都」

谷町線の西側には天王寺七坂と呼ばれる坂があります。私は源聖寺坂と口縄坂などを下ったり上ったりしました。

源聖寺坂を上った先にガタロがあったと言います。

なかなか上り甲斐のある坂でした。

谷町九丁目から暑いなか歩いて、口縄坂です。

(略)「下へ行く」といふのは、坂を西に降りて行くといふことなのである。数多い坂の中で、地蔵坂、源聖寺坂、愛染坂、口繩坂……と、坂の名を誌しるすだけでも私の想ひはなつかしさにしびれるが、とりわけなつかしいのは口繩坂である。
 口繩とは大阪で蛇のことである。といへば、はや察せられるやうに、口繩坂はまことに蛇の如くくねくねと木々の間を縫うて登る古びた石段の坂である。蛇坂といつてしまへば打ちこはしになるところを、くちなは坂とよんだところに情調もをかし味もうかがはれ、この名のゆゑに大阪では一番さきに頭に泛ぶ坂なのだが、しかし年少の頃の私は口繩坂といふ名称のもつ趣きには注意が向かず、むしろその坂を登り詰めた高台が夕陽丘とよばれ、その界隈の町が夕陽丘であることの方に、淡い青春の想ひが傾いた。(略)

──「木の都」

口縄坂を下ってから、上りました。楽勝じゃんと思いましたが、一段一段、階段が下向きに斜めになっていて、登りにくいったらありゃしません。雨の日は滑って転ぶ人がいるんじゃなかろうか。

上記引用にあるように、坂の上は夕陽ヶ丘という高台です。川島雄三監督はオダサクの「わが町」を映画化する前に、フランキー堺主演の「貸間あり」を夕陽ヶ丘で撮影しています。最後に、桂小金次が通天閣の方向に立ち小便をするんですが、現在の夕陽ヶ丘から通天閣を見られそうな場所は見当たらず……。

もちろん、映画『わが町』も直前に見直しました。

下のシーンは、ガタロに暮らし、車夫をしている主人公・他吉(辰巳柳太郎)が、階段を駆け下りているところ。源聖寺坂ですね。段差で小刻みに弾むので客が参っています。

オダサクでお薦めしたい小説は、阪田三吉や文楽を通じて大阪の魅力を語ったものよりも、やはり純然たるフィクションです。風景描写が少なく、話がポンポンと進んでいきます。代表作とされる「夫婦善哉」と、最近発掘された「続夫婦善哉」ももちろん傑作ですけど、いちばん好きな小説を挙げよと言われたら、私は短編「六白金星」か「競馬」で迷います。どちらも抜群に面白いんです。

魯迅「賢人と馬鹿と奴隷」など

5月半ばのこと、魯迅「賢人と馬鹿と奴隷」ってどんなんだったっけと、出かけたついでに図書館でコピーしてきました(文庫には入っていません。多分)。魯迅は1881年生まれの中国の文学者。儒教を批判した知識人だったと知れば、魯迅の作品を理解するのに役立ちます。

「賢人と馬鹿と奴隷」は短い寓話ですが、さらに要約します。

奴隷とは自分の境遇の愚痴を洩らす存在です。
賢人に向かって自らの非人道的な境遇を訴えると、賢人は「いまにね、きっとよくなるよ……」と言いました。
おなじく奴隷の不平を聞いた馬鹿は、「お前の主人はお前を窓なしの部屋に住まわせているのか。俺が窓をあけてやろう」と壁を毀しはじめます。
驚いた奴隷が「強盗だ」と騒ぐと仲間がやってきて、みんなで馬鹿を追い出しました。
主人は奴隷を褒めました。奴隷は、賢人に「先生が言ったとおり、いいことがありました。主人に褒められたんです」と報告。賢人は愉快そうに「なるほどね」と答えました。

さて──。

「奴隷」はまさしく奴隷です。食べ物や住まいに不満があっても、せいぜい他人に不平をこぼすことしかしません。では、「賢人」は本当に賢人でしょうか。「馬鹿」は本当に馬鹿でしょうか? 「賢人」は奴隷の愚痴を聞くものの慰める程度で、現状改善をはかろうとしません。「馬鹿」は、奴隷に同情し境遇改善を図ろうと行動を起こす人物です。

奴隷とは、不満があっても自ら奴隷のままでいつづけようとします。だから「奴隷」の基準では、現状を改善しない人間が「賢人」で、自分を解放しようとする人間は「馬鹿」という具合に、価値の転倒が起きてしまうのです。

魯迅の代表作のひとつ『阿Q正伝』も奴隷根性の話です。ふらふらとして確たる信念がないまま生きる阿Qは、無実の罪で捕らえられます。

「立ったまま言え! ひざまずかなくてよい!」長衣を着た人たちがみな、がやがやといった。
 阿Qはわかったつもりだったが、どうにも立っておられないような気がし、体がひとりでにうずくまっていって、結局そのままひざまずいてしまった。
「奴隷根性! ……」長衣を着た人がまたさげすむようにいったが、もう立てとはいわなかった。

彼の意識のなかには、人として天地の間に生まれてきた以上、もともと時には打ち首になることも免れられないものだろう、という思いもあるようであった。

この小説は、中国人が奴隷のようにフラフラして生きる危うさを戯画化しています。魯迅が奴隷根性の危うさに気づいたのは、東北大学で細菌学を学んでいた1906年(明治26)のことだと言われます。往時を回想した「藤野先生」より。

(略)第二学年には細菌学の授業が加わった。細菌の形態はすべて幻灯で示されたが、それが一段落してもまだ放課の時間にならないときには、時事的なフィルムが映された。当然それらはみな日本がロシアに戦勝している場面だった。ところがたまたまそのなかに中国人が混じっていたのである。ロシア人のためにスパイをして日本軍に捕えられ、銃殺されようとしているのだが、それをとりかこんで見ているのも中国人の群衆だった。教室の中にはもう一人、わたしもいるのである。「万歳!」彼らはいっせいに手をたたいて歓声をあげた。
 この歓声は、一枚を見るごとにいつもあがったが、わたしにとっては、その声はとくに耳を刺すようにきこえた。その後、中国に帰ってきてからも、わたしは銃殺される罪人をのどかに見物している人たちを見たが、彼らもどうしてか酒に酔ったように喝采するのである。──ああ、もはや何をか思うべき。だが、そのときその場で、わたしの考えは変ってしまったのだった。
 第二学年のおわりになると、わたしは藤野先生を訪ねていって、医学の勉強をやめ、そしてこの仙台を去りたいと思っていることを告げた。(略)

魯迅は、同胞が奴隷状態にあることを案じました。

「賢人と馬鹿と奴隷」は1925年に発表されました。ほぼ100年後の日本だって相当危ういのではないでしょうか。性的マイノリティや入管収容者が不当に差別されているのを見て歓声をあげる人たちがいます。一部の市民の人権が蹂躙されることは自分の人権も危うくすることなのに、いっさい気づいていない。「人権を守れ」と叫ぶ「馬鹿」に向かって、いずれ人権をおびやかされる市井の「奴隷」がサヨクだなんだと罵声を浴びせます。奴隷の行為を愉快そうに眺める「賢人」もいますね。

私は、入管法改悪やインボイス制度反対のデモに何度か参加しました。「馬鹿」で結構です。

夏目漱石『坊っちゃん』と資本主義

簡単に書けば、資本主義とは、誰かが誰かを搾取して儲けることです。資本家が儲けるのは、がんばる労働者からピンハネするから。

政府は資本主義が好き放題搾取するのを許しちゃいけません。誰かが儲けすぎていたら歯止めをかけ、搾取されすぎている人々に再配分しなければなりません。

ところが、近年の新自由主義(ネオリベラリズム)といったらなんでしょう。政府は富裕層と自分たちが儲かる利権システムを作ってますます肥るのです。非正規労働を増やすことを決めて、自社が経営する人材派遣会社でボロ儲けした人がいました。こんな具合ですから、当然、格差は拡がります。

国鉄や郵政の民営化、平成の大合併、病床の削減その他で、市民に対するサービスはどんどん減っているんだから税金は下がっていいはずなのに、増税また増税……。日本の税収は過去最高だそうです。税負担率は、いまや五公五民です。

「新自由主義=暴走する資本主義」の風潮が蔓延すれば、「稼いだ奴が勝ち」という損得勘定が人間の意識を覆ってしまうようです。書店にいけば(おそらくYouTubeにも)、拝金主義の人たちによる「稼ぎ方を教えてやる」「成功したいならアレをやれ」といった指南書(動画)がたくさんあります。稼ぎ方を教えてくれるなんて親切な人たちです。買ったことありませんが。

大昔の狩猟採集民からしたら、きれいな絵が描かれたヒラヒラした紙は、焚火に燃やす以上の価値がないのではなかろうか。あんなものに人が群がるなんて、不思議です。

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原発事故のあと、資本主義についてぼんやり考え始めた私は、夏目漱石『坊っちゃん』が「正直」と「資本主義=損得勘定」が戦う作品だと気づきました。

親譲の無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。

世の中に正直が勝たないで、外に勝つものがあるか、考えてみろ。

考えてみると世間の大部分の人はわるくなる事を奨励しているように思う。わるくならなければ社会に成功はしないものと信じているらしい。たまに正直な純粋な人を見ると、坊っちゃんだの小僧だのと難癖をつけて軽蔑する。それじゃ小学校や中学校で嘘をつくな、正直にしろと倫理の先生が教えない方がいい。いっそ思い切って学校で嘘をつく法とか、人を信じない術とか、人を乗せる策を教授する方が、世のためにも当人のためにもなるだろう。赤シャツがホホホホと笑ったのは、おれの単純なのを笑ったのだ。単純や真率が笑われる世の中じゃ仕様がない。清はこんな時に決して笑った事はない。大いに感心して聞いたもんだ。清の方が赤シャツよりよっぽど上等だ。

この小説、おカネのことがやけに出てくるのです。

母が死んだ六年後、父が亡くなります。遺産を処分した兄は「おれ」に六百円を、十数年家にいた下女・清(きよ)に五十円を渡して別れました。兄はかなりせしめたに違いありませんが、「おれ」は気に留めたふうではありません。六百円で三年間学校に通い、松山の数学教師になります。月給は四十円です。

東京を発つ前、唯一「おれ」を可愛がってくれた清を尋ねると、清は《坊っちゃんいつ家をお持ちなさいますと聞いた。卒業さえすれば金が自然とポッケットの中に湧いて来ると思っている》。いよいよ出立の日、見送りに来た清は「もうお別れになるかも知れません。随分ご機嫌きげんよう」と目に涙を一杯ためました。

汽車の切符代、宿屋のチップとして五円を渡した話、団子二皿七銭、下宿の主人が骨董を売りに来る話、赤シャツ(教頭)の家賃の額……おカネの記述は続きます。

山嵐(会津から来た数学教師)がいい奴かどうか「おれ」はわからなくなり、以前奢ってもらった氷水代の一銭五厘を突き返そうとして口論になりました。以来、「おれ」は山嵐と口をきかず、一銭五厘は机のうえで埃をかぶることになります。

やがて、下宿を移った「おれ」は、事情通の下宿屋の婆さんに衝撃的な事実を聞きます。うらなり(英語教師)は父の遺産を騙しとられて零落したそうです。すると、金満家の赤シャツが、うらなりと婚約していたマドンナを横取りしました。ひとの気持ちもカネ次第ということでしょうか。赤シャツは、代々当地に住んでいたうらなりを宮崎に転任させようと画策。さらに俸給アップをちらつかせて「おれ」を籠絡しようとします。

頭のわるい「おれ」には、誰が正しいのかにわかに判断できません。下宿の婆さんに、山嵐と赤シャツのどちらがえらいか質問します。

「つまり月給の多い方が豪いのじゃろうがなもし」

赤シャツを卑怯な奴だと勘づいてたあとで、2人はこんな会話もしました。

「(略)お婆さん、あの赤シャツは馬鹿ですぜ。卑怯でさあ」
「卑怯でもあんた、月給を上げておくれたら、大人しく頂いておく方が得ぞなもし。若いうちはよく腹の立つものじゃが、年をとってから考えると、も少しの我慢じゃあったのに惜しい事をした。腹立てたためにこないな損をしたと悔やむのが当り前じゃけれ、お婆の言う事をきいて、赤シャツさんが月給をあげてやろとお言いたら、難有うと受けておおきなさいや」

若いうちは腹を立てて損するが、汚いカネであっても大人なら黙って受け取れ、と言うのです。カネになるなら原発だって動かしちゃいな、という理屈です。しかし、残念ながら、こちとら「坊っちゃん」です。大人しくするわけがありません。「おれ」は山嵐と和解し、赤シャツや野だ(野だいこ・画学教師)を制裁すると、東京に帰ってきます。その後、どう暮らしたか……。

 その後ある人の周旋で街鉄の技手になった。月給は二十五円で、家賃は六円だ。

「おれ」は月給四十円の不正直な大人の世界を捨て、月給二十五円で、清と一緒に正直な暮らしをしたのです。悲しいことに、清は肺炎にかかり、《お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云》って亡くなりました。

主人公はいくつになっても「坊っちゃん」として生きていくのでしょう。資本主義社会においては「損ばかりしている」人生かもしれませんが、私は上等だと思います。