狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

アシックス エボライドスピード

厚底シューズの、アディダス スーパーノヴァライズを履き始めたんですが、ゆっくり走っているうちにどんどんスピードアップしてしまうのです。

私は、市民ランナー時代の標準体重62.5kgに下げるまで、6:30〜7:00/kmで充分だと思っているので、がんばって遅く走っても5:30/kmにしか下がらないスーパーノヴァライズはちょっとつらい。

友人のすすめで、アシックスのエボライドスピードというモデルを履き始めました。やはりグイグイ進みますが、こちらは5:45〜6:00/kmなら走れます。


 厚底シューズで遅く走りたいってお前はバカか。

はい、その通りなんですけど……。

エボライドスピードを履くと、両膝が痛くなるんです。膝痛で1日休んだこともあります。無理にブレーキをかけているせいか、ちょっとした窪地などを踏んだときに厚底だから膝に負担がかかるのか……。カーブを曲がるときも注意が必要な気がします。(ちなみに、アディダス スーパーノヴァライズで痛みが出ることはありません)

そんなこんなで、膝の痛みが消えるまで地下足袋みたいなメレル Vapor Gloveで走ります。小石踏むと痛いよ。

「翌日休む」と決めた日だけ、エボライドスピードで走ります。

『スモール・イズ・ビューティフル』2/2

引きつづき、『スモール イズ ビューティフル』(講談社学術文庫)からメモ。雑談みたいなものです。

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 民主主義、自由、人間の尊厳、生活水準、自己実現、完成といったことは、何を意味するのだろうか。それはモノのことだろうか、人間にかかわることだろうか。もちろん、人間にかかわることである。だが、人間というものは、小さな、理解の届く集団の中でこそ人間でありうるのである。そこで、数多くの小規模単位を扱えるような構造を考えなければならない。経済学がこの点をつかめないとすれば、それは無用の長物である。経済学が国民所得、成長率、資本算出比率、投入・産出分析、労働の移動性、資本蓄積といったような大きな抽象概念を乗り越えて、貧困、挫折、疎外、絶望、社会秩序の分解、犯罪、現実逃避、ストレス、混雑、醜さ、そして精神の死というような現実の姿に触れないのであれば、そんな経済学は捨てて、新しく出直そうではないか。(97頁)

10年くらい前、ジクソーパズルで解けないところがあると義姉が言うのです。「経済」は(  )の略語である、という問題でした。答えは「ケイセイサイミン(経世済民)」で、意味するところは「世を経(おさ)めて民を済(すく)う」だと言ったところ、義姉ならず義兄も驚いていました。案外、知られていないのかもね。

日本の経済政策や税制は、民を済っているようには思えません。

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私はよく「答えのない問題」と「答えのある問題」なんて言います。G・N・M・ティレルという人は、それぞれ「拡散する問題」と「収斂する問題」と名づけているんだとか。

シューマッハーは、「拡散する問題」を扱うことは《より高い次元の力の登場を求め、引っぱりだし、それによって人生に愛と美と真実を与え》、《このような高い次元の力を借りてはじめて、二つの対立[拡散する問題と収斂する問題]が現実に和解させられるのである》と書きます。

物理学や数学は「収斂する問題」を扱うが、そればかり相手にしていると、人文科学の「拡散する問題」から遠ざかってしまう……その例として挙げられている、ある人物の述懐をお読みください。

 三十歳のときまで、あるいは三十歳をすぎてまで、たくさんの詩が私に大きな喜びを与えた。学校の生徒だったときでさえ、シェークスピア、とくにその史劇に非常なたのしみをおぼえた。私はまた、以前には絵画がかなりの、また音楽がたいへん大きな喜びを私に与えたこともいった。しかし今は、すでに長年、一行の詩を読むのも辛抱できない。 私は最近シェークスピアを読もうとしてみたが、それは耐えられないほど退屈で、嘔吐が起こりそうなくらいであった。私はまた、絵画や音楽への趣味もほとんど失ってしまった。……私の心は、事実の大量の寄せ集めをつきくだいて一般法則をつくりだす一種の機械になってしまったように思える。しかし、これがなぜ高尚な趣味のもとになる脳のその部分だけを衰えさせることになったのか、私にはわからない……これらの趣味の喪失は、幸福の喪失である。しかも、たぶん知性にとっても有害であろうし、われわれの本性の情緒的な部分を弱めるため道徳的性質にとって有害であるということは、もっとありそうなことである。

正直者ですね。

シューマッハーは、教育について、技術的ノウハウを伝えることも必要だが、《まず何はさておき価値観、つまり、人生いかに生きるべきかについての観念を伝えなくてはならない》と書いています。その《観念が貧しく、力弱く、上滑りでまとまりがないと、》堪えられないほどの《空虚感》に囚われ、そこに《たとえばとてつもなく大げさな政治的観念が現れて、突然何もかもを明るく照らし、生に意味と目標を与えてくれるように見えた場合、精神の空白は簡単にそれで埋められてしまう》と警告するのです。シューマッハーはナチス政権下のドイツを目の当たりにしました。

上記の引用は、『ダーウィン自伝』からだそうです。ナチスの優生思想に影響を与えたのはメンデルとダーウィンでした。

『スモール・イズ・ビューティフル』1/2

 私は技術の発展に新しい方向を与え、技術を人間の真の必要物に立ち返らせることができると信じている。それは人間の背丈に合わせる方向でもある。人間は小さいものである。だからこそ、小さいことはすばらしいのである。巨大さを追い求めるのは、自己破壊に通じる。(講談社学術文庫 211頁 傍点部分は太字にしました)

E・F・シューマッハー『スモール イズ ビューティフル』(講談社学術文庫)よりの引用です。ガンディーに影響を受けた一人としてシューマッハー(ドイツ生まれ、1911-78)の名前が挙がっていたので興味をもちました。産業資本主義や科学万能主義を批判し、脱成長、環境保護の意見を説いています。上記著作は、1973年に上梓されたものです。

 今でも信じられている経済学は、みなが私利私欲で経済活動をすれば社会は栄えるというリバタリアニズムに基づいたものです。「めいめい利己的にやってりゃ良くなるよ」というわけです。ところが、現実は違います。《現に豊かな人をますます富ませ、権力のある人の権力を強める結果をもたらすような政策しかとれないことがほぼ例外なくはっきりしている》(96頁)のです。いまの日本を見よ、国営サービスはどんどん民営化されてしまい、格差が広がり、大企業と手を組んだ与党政治家が裏金つくりつつ法人税を低くして庶民の税負担を増やしています。

シューマッハーは、みんなが人間性を損なうことなく幸せになる「仏教経済学」を唱えています。答えのない問題を解く力を養う教育、環境を破壊しないことなどを説いているのでした。後半は、人間性を失わない企業のあり方などが具体的に書かれていました。

もちろん、原子力の悪影響についても語っています。こちらは1965年の講演だそうです。

「何百万年以上にわたって発達してきた環境には、どこか優れた点があると考えるべきである。地球には、一五〇万種以上の動植物が生息し、そのすべてが同じ土壌と空気の分子を使い続けて、だいたい均衡のとれた状態の中で生存しているが、このように複雑きわまる惑星の地球を、目的もはっきりしない操作で手直しし改善しようというのは、無理な相談である。複雑なメカニズムに変化を加えると、どんな変化でもある程度の危険が伴うので、あらゆるデータを慎重に検討した上で行なう必要がある。まず、わずかな変化を加える事前テストを行なってから、大きな変化にとりかかるべきである。データが揃わない場合には、そのメカニズムを長い間支えてきた実績のある自然の力にできるだけまかせることである」(177頁)

原発は要らない。私もそう考えています。ただ、『スモール・イズ・ビューティフル』から約40年後、わが国は原発事故を起こしてしまい、日本のみならず世界の環境に悪影響を与えています。せっかく忠告してくれたのに。

シューマッハーの思想は、狩猟採集生活を参考に、社会をとらえなおす私の考えにも通じるものでした。人間は最大でも150人の集団で暮らし、利他的で平等分配をしてきたのです。持つ者は与え、与えられた者は「あたりまえ」なので礼も言わずに受け取ります。それは、何十万年もかけて練り上げられた社会の生存戦略だと思うのです。ところが、定住・農耕以降、人口爆発が起き、階層が生まれ、貧富の差が生じました。

朋あり遠方より来る

Facebookではやりとりしているけど、高校卒業以来会ったことのない──そもそも、在校時代はオールバック&そり込みで、私のほうからは近寄らなかった──友人が大阪から上京したので再会。総勢8人集まり、六本木で昼呑みしました。写真は、東京ミッドタウンをとりまくように植えられた桜です。

卒業したのが1984年かな(珍しく観たテレビドラマ『不適切にもほどがある!』の昭和設定は1986年でしたか。ちょいと違和感もありましたが、ここには詳しく書きますまい)。

思い出話やなにやかやでわいわいやりました。13時15分スタートで、17時くらいまで飲んでいたのかな。最近、いくら呑んでも酩酊しない気がするのは、むかしはもっと呑んでいたせいか、強くなったのか……。

草の家、木の家、レンガの家

台湾で大地震──。能登半島の地震につづき、ニュース映像にショックを受けました。1人でも多くの人が助かりますように。わずかながら支援のため募金をしました。

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ジャレド・ダイアモンドが『昨日までの世界』下巻に書かれていたエピソードです。本が見つからないのでうろ覚えで書きます。(見つかったら書き直します)

東南アジアの原住民とキャンプをしていたジャレド・ダイアモンドが「ここで野宿しよう」というと「この木が折れて倒れるかもしれないから厭だ」というんだそうです。「丈夫な木じゃないか。一晩くらい大丈夫だよ」と言いましたが、彼らは頑なに拒みました。

のちに、ジャレド・ダイアモンドは、仮に倒木の可能性が万に一つであっても、毎日木のそばに寝ていたら、一生のどこかで圧死する可能性があり、彼らは、あらゆる場面でほとんどありえない危険すら回避していることを理解しました。事実、森では、樹木が倒れる音をよく聞いたのです。

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三匹の子ブタが、それぞれ草の家、木の家、レンガの家を建てました。オオカミに襲われた場合は、レンガの家が一番よかった。

もしも、地震だったらどうでしょうか。

先史時代の人たちが、上記の原住民と同じ危機管理意識を備えていたのだとしたら、木の枝と葉っぱでできた家に住んでいたのは暮らしの知恵かもしれません。家がつぶれたってたかが知れていますし、すぐに作り直せます。

最近、そんなことをつくづく考えます。しかし、われわれは堅牢な家で定住することを選んでしまったのです。

ワオラニ

前回ちょっと書いたエクアドルのワオラニ族(アウカ族)に関して、アレックス・リバス・トレド/山本誠・訳「世界システムとアマゾン先住民──タゲリへの襲撃をめぐって」(四天王寺大学紀要・第46号 2008/9)という論文を読みました。トレドは、メキシコ市立社会人類学高等調査研究センター(CIESAS)社会人類学部門担当官。エクアドル生態学 研究 エコ・サイエンス財団とのプロジェクトにおいて、1999年から2001年にかけてワオラニの調査を行っている人物とあります。

ウォーラーステインの「世界システム論」を援用しながら西欧社会の枠組みに巻き込まれた辺境の未開部族がどうなるか、という論文ですが、そのことには踏みこみません。

ワオラニは1956年に、夏期言語学研究所から派遣された5人のプロテスタント系の宣教師を殺しました。1987年に総代理司祭、1990年代、2000年代にも入植者、石油関係者、木材伐採業者が襲撃されたため、ワオラニの暴力は「未開・反文明・野蛮」「血に飢えた本来的に未開な集団」といったイメージを定着させたそうです。

1956年の宣教師殺害ののち、60年代から70年代にかけてワオラニと接触することに成功した宣教師たちは、保護区に彼らのクラン(氏族と訳される)を集めましたが、人口増加による緊張の高まりにより分散し、外部からの接触を拒むようになったとあります。

ワオラニと同様、南米のヤノマミも「獰猛な民」と呼ばれてきましたが、《30年以上にわたってヤノマミを「獰猛な民」として捉えてきた民族誌は、彼らへのはなはだしい暴力と干渉という条件のもとでつくられていた》とわかってきたと書かれています。《戦争の暴力と憎悪といった発想のより所となっていた民族誌上のエピソードの中には、現地での意図的な操作の産物すら紛れ込んでいた 。また彼らは死をもたらしかねない麻疹ワクチンの実験材料にも動員されて おり、それは殺人集団というエスニック・イメージの構築と並行してのことであった。》

 ワオラニの場合は、部族内部の暴力と死は最も重要な文化的特徴だとして扱われた。彼らを 平定したプロテスタント系のミッション以降、オーラルヒストリーをつなぎ合わせることでワ オラニの過去が研究され、その結論は「生まれつき暴力的」というものでしかなかった。そ ういった調査がなされる一方で、ワオラニはテリトリー統合の対象とされ、生業や食習慣の変更、そしてコスモロジーの修正も強いられた。文明化したインディオとしての社会モデルを引き受けるよう促されたのである。

「暴力的な部族が布教により平定され文明化された」というストーリーありきで語られてきたということです。

 こうしたヤノマミとワオラニの事例から示唆されているのは、次のようなことではないだろうか。つまり、近代における彼らのアイデンティティ構築のありようは、外部エージェントの 利害や役割、活動ぶりと極めて密接な関係をもっていたということだ。自然主義者や文化主義者の解釈にはこのようなアマゾン先住民に関する社会的・政治的な説明が含まれておらず、彼らは先住民たちの中核的な要素たる暴力や武器、狩猟に関する記述に専心していただけのことだった。進化主義と文化主義は手を携えて近代の原初主義的な神話を創造し、ヤノマミとワオラニは先祖代々より暴力的な存在だとされたのである。

未開社会の人たちは、文明人に野蛮な者・宗教を知らない弱者として発見され、大きな近代という大きな渦に呑みこまれます。《アマゾンの部族戦争なるものは、近代の侵入という大きな災厄の効果なのではないか?》と結語に書かれています。先住民たちは白人がつくった物語や、グローバル資本主義と対峙しながら権利を主張するほかありません。

『ミッション:「サタンの最後の砦」に挑んだ宣教師』

『ミッション:「サタンの最後の砦」に挑んだ宣教師』(原題『THE MISSON』)というドキュメント番組が昨年ナショジオチャンネルで放映されました。

インド領アマンダン諸島のひとつ、北センチネル島に、外来者を拒絶するセンチネル族が住んでいます。2018年、キリスト教福音派の宣教師であるアメリカ人の若者ジョン・チャウが彼らに接近し、矢で射殺されました。

狩猟採集民は平和的だと読んだのちこの事件を知り、やや混乱しましたが、さらに学んでいくうち、以前、センチネル族に接近した人が、現地民を連れ去るか、彼らにとって未知の病気を流行らせたのだろうと推察していました。

はたして、そのとおりでした。

1880年、当時十代だったイギリス人M・V・ポートマン(Mauris Vidal Portman)がアマンダン諸島のセンチネル族と接触し、大人2人と子ども4人を連れ去りました。大人2人はすぐに死んだため、子どもを島に帰しましたが、このことがセンチネル族を排他的にしたというのです。

インド国立人類学研究所T・N・パンディットは何度もセンチネル族との接触を試みましたが、今では彼らに近づくべきではないと話していました。「彼らも人間でバカの集団ではない。他の部族の衰退を見てきた。たとえば大アマンダン人。オンゲ族も不幸な目に遭った」

かつてピダハンに伝導を試みたダニエル・E・エヴァレットが登場。未開の人びとに布教する必要はないと話します。エヴァレットは、長年ピダハン族と暮らし、彼らの言葉を研究して布教のチャンスを窺いましたが、今の生活に満足している彼らにアマゾンのに神は必要ないと悟り、最終的には自分自身もキリスト教を捨てました。彼が書いた『ピダハン』は必読ですよ。

欧米の人々は未開の土地に行き、命を賭けてまでキリスト教を布教することが善いことだと考えています。「食人の習慣がある」などと事実をねじまげても、善導しようとするのだ──と、きちんとそこまで伝えた番組でした。

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以下、個人的なメモ。

番組で紹介された記録映画や本。ジョン・チャウに影響を与えたかもしれません。

  • Through Gates of Sprender:エクアドルのアウカ族への布教
  • End of The Spear:エクアドルのワオラニ族(アウカ族と同じらしい)を改宗させアメリカ中で「神の勝利」と讃えられた。
  • 『The Last Island of The Savegers』アダム・グッドハートの著書。北センチネル島のことを描く。著者は映像に何度も登場。
  • Cannibal  Island:アンダマン諸島ジャワラ族は死んだ男の頭蓋骨を首から下げる習慣があり、それを食人習慣があるかのように描く。
  • The Last Tribes of Mindanao:フィリピン・ミンダナオ島のタサダイ族
  • Man in Search of Man:アマンダン諸島の先住民を記録したフィルムと思われる。北センチネル族と接触を試みるシーンは番組に何度も登場。
  • The Peace Child:1962年、ニューギニアの人食い人種サウィ族を伝道する話らしい。