狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

ワオラニ

前回ちょっと書いたエクアドルのワオラニ族(アウカ族)に関して、アレックス・リバス・トレド/山本誠・訳「世界システムとアマゾン先住民──タゲリへの襲撃をめぐって」(四天王寺大学紀要・第46号 2008/9)という論文を読みました。トレドは、メキシコ市立社会人類学高等調査研究センター(CIESAS)社会人類学部門担当官。エクアドル生態学 研究 エコ・サイエンス財団とのプロジェクトにおいて、1999年から2001年にかけてワオラニの調査を行っている人物とあります。

ウォーラーステインの「世界システム論」を援用しながら西欧社会の枠組みに巻き込まれた辺境の未開部族がどうなるか、という論文ですが、そのことには踏みこみません。

ワオラニは1956年に、夏期言語学研究所から派遣された5人のプロテスタント系の宣教師を殺しました。1987年に総代理司祭、1990年代、2000年代にも入植者、石油関係者、木材伐採業者が襲撃されたため、ワオラニの暴力は「未開・反文明・野蛮」「血に飢えた本来的に未開な集団」といったイメージを定着させたそうです。

1956年の宣教師殺害ののち、60年代から70年代にかけてワオラニと接触することに成功した宣教師たちは、保護区に彼らのクラン(氏族と訳される)を集めましたが、人口増加による緊張の高まりにより分散し、外部からの接触を拒むようになったとあります。

ワオラニと同様、南米のヤノマミも「獰猛な民」と呼ばれてきましたが、《30年以上にわたってヤノマミを「獰猛な民」として捉えてきた民族誌は、彼らへのはなはだしい暴力と干渉という条件のもとでつくられていた》とわかってきたと書かれています。《戦争の暴力と憎悪といった発想のより所となっていた民族誌上のエピソードの中には、現地での意図的な操作の産物すら紛れ込んでいた 。また彼らは死をもたらしかねない麻疹ワクチンの実験材料にも動員されて おり、それは殺人集団というエスニック・イメージの構築と並行してのことであった。》

 ワオラニの場合は、部族内部の暴力と死は最も重要な文化的特徴だとして扱われた。彼らを 平定したプロテスタント系のミッション以降、オーラルヒストリーをつなぎ合わせることでワ オラニの過去が研究され、その結論は「生まれつき暴力的」というものでしかなかった。そ ういった調査がなされる一方で、ワオラニはテリトリー統合の対象とされ、生業や食習慣の変更、そしてコスモロジーの修正も強いられた。文明化したインディオとしての社会モデルを引き受けるよう促されたのである。

「暴力的な部族が布教により平定され文明化された」というストーリーありきで語られてきたということです。

 こうしたヤノマミとワオラニの事例から示唆されているのは、次のようなことではないだろうか。つまり、近代における彼らのアイデンティティ構築のありようは、外部エージェントの 利害や役割、活動ぶりと極めて密接な関係をもっていたということだ。自然主義者や文化主義者の解釈にはこのようなアマゾン先住民に関する社会的・政治的な説明が含まれておらず、彼らは先住民たちの中核的な要素たる暴力や武器、狩猟に関する記述に専心していただけのことだった。進化主義と文化主義は手を携えて近代の原初主義的な神話を創造し、ヤノマミとワオラニは先祖代々より暴力的な存在だとされたのである。

未開社会の人たちは、文明人に野蛮な者・宗教を知らない弱者として発見され、大きな近代という大きな渦に呑みこまれます。《アマゾンの部族戦争なるものは、近代の侵入という大きな災厄の効果なのではないか?》と結語に書かれています。先住民たちは白人がつくった物語や、グローバル資本主義と対峙しながら権利を主張するほかありません。