狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

4連休のラン&ガーミンの電池残量低下

9月の4連休、80kmくらいは走ろうと思っていたんですけど、3日目は妻の実家のお墓参りにいくことになり、なんだか疲れてしまってランオフ。初日から21km、21km、オフ、23km(夕方13km+深夜10km)で、結局65km。達成率ほぼ8割でした。せっかく涼しくなったというのに……トホホ。

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私はたいていガーミン630Jをつけて走っています。630Jは必要以上の機能がないところが気に入っているんです。630Jには腕で測るタイプの光学式心拍計もついていません。腕で測るタイプはランニング中の心拍数がきちんと測れないことが多く(個人の感想です)、結局チェストストラップタイプをつけているから、ガーミン本体には不要なんです(あくまで個人の感想です)。

連休4日目の夕方、メレル・ベイパーグローブを履いてちんたら走っていたら、7km手前で「電池残量低下」という表示が。あちゃ〜、充電してなかったんだ。以前、この表示が出てもしばらく走れましたが、いったいあと何分もつのか……。バッテリーのムダ遣いはやめよう。メールなどが来たらガーミンに表示されるように同期設定しているので、まずはスマホのBluetoothをオフにしました。

630Jはたしか8時間計測できると書いてあったと思うんです。

①残量10%だとしたら、48分。バッテリーが劣化しているとしても40分はもつ?
②残量5%だとしたら、24分。実質20分くらい?

①だと信じれば、6、7kmは走れるかな。そこから少しスピードを上げ、ときどき街灯に照らして電池が切れてないか確かめます。ペースなどを確認するためライトを点灯させるとバッテリーに影響するでしょうから、操作は一切せず。その後、「電池残量低下」が3度出ました。①ならば2%、②なら1%減るごとに表示されるのでしょう。12kmジャストのラップと同時に4度目の「電池残量低下」が表示されました。これが最後の表示かも……? 1キロ加えて13kmで終了。

記録を保存してバッテリー残量を確認すると2%でした。シャワー前、時計を外すさいに見たら5%と表示されていたのはナゾですが……。

きちんと充電して、深夜に10キロゆるゆるジョグしました。

糖質制限とガン

このあいだ、SNS上で同世代の女性友だちから聞いた話です。彼女はコロナ自粛により太ってしまったので糖質制限をはじめたところ数ヶ月で体重が目標体重まで落ちたそうです。意外にも安倍前首相と同じ持病が軽くなったとか。さらに続けるといいます。

糖質制限派は、糖質が体内の炎症の原因だから、制限すればいろんな病気の予防になると主張します。贔屓の引き倒しかもしれません。とはいえ、炭水化物(食物繊維+糖質)は食事性炎症指数(DII)が高いらしい。西洋の研究から割り出したDIIは日本人に合わないという報告もあり一筋縄でいきませんが、上記の女性の例もありますし、今後の研究を待ちたいと思います。

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私が狩猟採集生活に興味をもったきっかけはいくつかあります。何度か引用したダニエル・E・リーバーマン『人体六〇〇万年史』(上)の次の文章は衝撃的でした。

(略)先進国の高齢者の死亡や障害の原因となっている非感染症の病気のほとんどは狩猟採集民の中高齢者にはまったく見られないか、見られたとしてもかなり珍しいことがわかっている。もちろん調査の数が限られているとはいえ、とりあえず報告されているかぎり狩猟採集民のなかで2型糖尿病や冠状動脈性心疾患高血圧骨粗鬆症、乳がん喘息肝疾患を患っている人は皆無に近い。さらに言えば痛風近視虫歯難聴扁平足といったありふれた軽い疾患に悩まされている人もほとんどいないように思われる(ハヤカワ・ノンフィクション文庫版『人体六〇〇万年史』下巻112ページ、太字は引用者による)

アザラシや魚などばかり食べていた時代のイヌイットも、現代病とは無縁だったと言われます。西洋の食事が入ってから、ガンなどが見られるようになったとのこと。

交易をしなかった原始的な狩猟採集民が食べる炭水化物は塊茎と果物くらいです。いずれも品種改良されていないので糖度は低いそうです。たまに見つける蜂蜜は大好物です。そういえば、甘いもの好きが農業転換の理由だと夏井睦さんは書いていました。

ともかく、何百万年も狩猟採集生活していた人間はそもそも低糖質食に適した身体をしています。熱したデンプンや砂糖が人間の硬くて丈夫な歯のエナメル質を溶かして虫歯にするのを見るだけでも、糖質が身体にマッチしていないとわかります。

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近年、糖質とガンの関係が研究されているそうです。

既述のとおり、ガンが少ない狩猟採集民は低糖質生活をしていました。また、小児の難治性てんかんに有効性のある低糖質食をで治療していたら、たまたま腫瘍があった子の患部が小さくなった例があるそうです。

日本では大阪大学がステージ4のガン患者に3ヶ月間ケトン食を食べてもらう臨床実験をしています。ケトン食とは、高脂肪・低脂肪食のことです。低糖質食だと体内の糖が減ります。すると、脂肪が分解されてケトン体が発生し、糖の代わりにエネルギー源となるのです。もちろん実験に参加する人はケトン食に自ら協力するという患者の方(途中でやめる人もいます)で、通常の治療も続けています。現段階で、寛解した人や亡くなる前のQOL(クオリティ・オブ・ライフ)が高まったという例が報告されています。

まだエビデンスレベルとしては低いし、ガンと糖質の関係のメカニズムが科学的に立証されるまでは仮説に過ぎませんが、これからも注目していきたい実験です。

肥満だけでなくガンを患う人に、それとなく糖質制限をすすめることがあります。もちろん上記研究は仮説段階ですし、押しつける気はありません。そんな仮説もあるらしいよ、くらいのニュアンスで話すんです。先方が「闘病はつらいから食べるくらい好きにさせて」といえば、もちろんそこで終了です。

将棋と私(2)

「将棋と私」といったって、熱中していたのは中1の3学期から高1の夏までなんですが……。

高校1年の夏休みにおこなわれた全国高校将棋選手権の全国大会は東京の晴海のホテルが会場でした。初めての東京です。2泊3日しましたが、東京駅とホテル界隈しか歩いていません。

わが校は、過去に優勝や準優勝をしている高校という理由だけで、我々はざっくりと優勝候補に数えられていたようです。県予選では1勝しかしなかったK田も全勝し、3勝0敗で勝ち進みましたが、初日の最後に私とK田が負け、1勝2敗で敗退。私は接戦でしたが秒読みに追われ、終盤の大事なところで二者択一を読み切れなかったのが残念です。ベスト8でした。あとひとつ勝ったら、当時最強と言われたA布高校と当たったんですけど(おそらく歯が立たなかったと思われますが)、とにかく全力を尽くした感じはありました。

個人戦代表のHも負け広島勢は終了。ホテルの部屋でトランプなどをしていると、コンコンとドアを叩く人がいます。KO高校の人たちでした。「僕たち負けてしまった悔しくて寝られないのでロビーで将棋を指しませんか」と言います。ロビーに下りてみると、女子の部ふくむ数名の高校生が黙々と将棋を指していました。みんな将棋が好きだなあ、とちょっと呆れました。

ところで。高1の1学期、運動がまるでできなかった私が、あることをきっかけに急に100M走が速くなりました(これは以前書きました→ドラえもん、100m、要領の話、その他。 - 狩猟採集民のように走ろう!)。100Mを走り切ってタイムを聞いた瞬間、「ああ、人生は将棋じゃないな」と思ったんです。2年、3年とタイムは速くなり、12秒台半ばで走れるようになります。運動が盛んな高校ではなかったので、学校のトップクラスでした。土曜日などは仲間を集めて草野球・草ソフトボールをやるようになりました。

高1の夏、全国大会で燃え尽きたことで将棋熱は冷めてしまいました。Aも何やら他のことに夢中になった様子。同じメンバーで戦ったのに翌年は県予選決勝で負け、翌々年はなんと1回戦で敗退しました。

もう一度強くなれるチャンスがあるとしたら大学の将棋部に入ることでしたが、将棋に熱中して留年する大学生をたくさん見ていたので近寄りもせず……。将棋を見たり指したりするようになったのは羽生世代が華々しく登場したころです。将棋連盟ではときどきアマ四段で指していました。

ちなみに間接的に将棋班に入るきっかけをつくったK川は水泳班で、高校2年のときに中退して歌手としてデビューしました。お〜も〜にか〜。

おしまい。

将棋と私(1)

一度、将棋と自分の話を書いておきましょう。

私は私立の中学高校一貫校に通いました。

1時間以上かけてバス通学していたのでやむなく帰宅部でした。運動全般苦手でしたが野球班(私が通った学校では部といわず班と言ったのです)に入りたかったんです。

将棋班にもすこし興味がありました。でも将棋は頭がいい人がやるもの、という一般的なイメージを私も共有していて敷居が高かった。同じクラスのM谷が「土曜日だけでいいから来なよ」と誘ってくれ、迷っていたところ、運動はできるけどあまり賢くないと目されている同級生K川が「将棋でM谷に勝った」という噂が流れてきました。中1の3学期のことです。K川に「わしも将棋班に入れるじゃろうか」と言うと、「M谷が入っとるくらいじゃけ、入れるよ」という答え。それならば、と入部して土曜日に初めてM谷と指したところ……立て続けに何局も負けました。

K川に負けたM谷に負けた……屈辱的でした。当時の私は負けず嫌いで、それでカッとなってしまいました。実家近くの書店に行き、大山康晴『最近の三間飛車』という本を買いました。いまだに振り飛車党なのは大山先生の影響です。土曜日だけだったつもりの将棋班に毎日通い、腕を磨きました。

当時、他校の同級生には、のちにアマチュア日本一になったM本や、高卒後奨励会に入ったH田ら猛者がいました。私と同じ中学のA本も強かった。デパートの将棋大会では彼らのいずれかが優勝していました。

私は彼らより弱く、せいぜいベスト4止まり。いま考えれば性格が未熟だったのです。終盤はそこそこ強いのに中盤で辛抱できず、自陣を見ずに攻め合いに行き、一手負けになる感じです。将棋も定跡通りに指そうとしてケレン味が足りなかったように感じます。たぶん、いまのほうが強いはずです。

高校1年の夏、全国高校選手権の広島県予選の団体の部に出ることになりました。以前は高校将棋の全国大会はひとつだけだったんです。そのうえ個人の部と団体の部を兼ねることができず、個人戦でも広島県代表になれるかもしれないA本が団体戦に入ってくれたので、「県代表になれるかも……」とは感じていました。私が通った高校はそれ以前に、団体戦で全国優勝を一度達成していて、3年上の先輩は準優勝していました。

ただ、高校1年生のA本と私以外にめぼしいメンバーがいません。A本が、「高校から入ってきたサッカー班のK田という男は福岡出身で、福岡の中学生将棋大会で優勝したことがある」という情報を仕入れてきました。じゃあ、K田をメンバーにしよう、ということになりました。

県予選の少し前、3人で顔合わせしました。正直、「K田が自分より強いとイヤだな」と感じていましたが、福岡県で1位になったとは思えない弱さ。A本にも私にもコロコロ負けます。A本と私は「K田には期待できない。2勝1敗で勝ち上がろう」と約束して県大会に臨んだのでした。

さて、当日。K田は全敗、A本と私が勝って2勝1敗で勝ち上がりました。私は割りきって振り飛車穴熊を指していました。中盤をほぼ互角で乗り切って終盤で競り勝つ作戦です。

ベスト4でついに某大附属高校の3年生チームと当たりました。私たちの先輩に全国大会進出を阻まれてきたメンバーです。前日、将棋道場で会った某大附属高の部長Iさんは私に向かって「今夏、われわれはこの大会に賭けている。自分は浪人覚悟で将棋に打ち込んできた。きみたちの全国大会進出は来年以降だよ」と宣言しました。

私と当たった某大附属3年生の人(名前は失念)は勝ったことのない本格派で、個人戦でも全国大会に行けると言われていました。いやあ、強い。その日も負けてしまいました。A本は勝ちそうでしたが、Iさんと対戦するK田が勝てるはずがない。1勝2敗で負けるでしょう。応援に来ていた先輩に謝罪し、来年頑張りますと言いました。すると、先輩が「まだわからない。黙ってろ」と、K田とIさんの局面を見るよう促すのです。

信じられない展開でした。あの、沈着なIさんの顔が真っ赤になっています。広島の将棋界で見たことのない新人を前に、混乱しているようでした。2人とも悪手の連続です。相手の玉が詰むのに王手飛車をかけて飛車を取る……なんて不思議なことを繰り返します。私はかつてあのような悲惨な戦いを見たことがない(なぎら健壱)です。

なんと、最後にはK田が勝ってしまいました。Aが勝ち、2勝1敗で決勝進出です。

決勝戦ではA本は安定の勝利、私は終盤に逆転して全国大会への進出を決めたのでした。K田は負けましたが、準決勝での奇跡の1勝で充分です。

全国大会出場が決まったときは感激してフワフワしていました。あの幸福感、その後は体験していないような気がします。

…………続くかも。

名古屋W26,000円とはッ!?

私がランニングイベントに出はじめたのは2008年です。走り始めたのは、その数年前。「一度フルマラソンに出てみたいなあ」と思いながら、ランニング雑誌を見ていました。当時、ランナーズなど、雑誌の巻末に大会情報が出ていたんです。フルマラソンの参加費って5,000円とか6,000円ではなかったかなあ。

第1回東京マラソンは2007年に始まりました。エントリー料が10,000円とあり、ビックリしたのを覚えています。そんなに高いマラソン大会は初めてだったのです。機を見るに敏と言いますか、湘南国際マラソン(当時は公認レース)も1万円に便乗(?)値上げしました。そのころからマラソンブームといわれ、エントリー合戦が加熱しはじめていたので、それでも参加者は集まるのでした。

いまの私は大会に出ようという気はあまりないし、女性の大会でもありますが、名古屋ウィメンズマラソン2021のエントリー料が26,000円と聞いて腰を抜かしました。参加人数を半分にしたりコロナ対策をするなど理由はあるでしょうけど、

26,000円とはッ!?

第1回名古屋ウィメンズマラソンは参加費は10,000円だったらしい。以降、段階的に引き上げられてきたようです。

「マラソンは金がかからない趣味」とよく言われますけど、遠征費やらGPSウォッチやら何やら案外かかりますから、市民ランナーはある程度金銭的に余裕のあると感じています。とはいえ、なんとかノミクスはじめ新自由主義的政策により、近年では一部富裕層以外は不景気になり、消費税増やコロナ騒ぎでデフレマインドが蔓延しています。ランナーのみなさんはハイテクシューズの価格が3万円になったり、レースのエントリー料が上がっていくことをどう見ているんでしょうか。

お化粧ばっちりの有閑マダムたちがナイキヴェイパーフライを履いて颯爽と走る名古屋ウィメンズマラソンを想像しながら、夕方13km走った私。6,000円で買った型落ちソーティマジックを観察しますと、アウトソールは大きく剥がれ、ミッドソールは完全に潰れていました。チャンチャン。

追記 FBで教えてもらいました。公式サイトの申込規約(→HP)には、新型コロナウイルスによる緊急事態宣言などで大会が中止された場合は全額返金されず、オンラインマラソンに変更され、5000円分のQUOカードが返ってくるそうです。申込みを考えている方、規約をよくお読み下さい。

金子光晴『自由について』

自由について 金子光晴老境随想 (中公文庫)

自由について 金子光晴老境随想 (中公文庫)

  • 作者:金子光晴
  • 発売日: 2016/04/28
  • メディア: Kindle版
 

ううう。13日(日)も調子イマイチ。坂道走っているときは楽しくはありますが……。

平等分配的な狩猟採集社会から見ると息苦しい現代の階層社会。平等や自由、権力への抵抗を見せた人たちの本を選んで記録しています。最近読んだ、このブログに関連する本をもう一冊。

金子光晴『自由について』を読みました。サブタイトルに「金子光晴老境随想」とあり、そのテーマに応じて中公文庫が編んだアンソロジーなのでしょう。前回書いたジャーナリスト・石橋湛山と同じく、金子光晴も戦時中に反戦を唱えていました。難解で、すぐにそれとはわからない反戦詩を発表したり、息子の徴兵忌避をしたり……。

とにかく家に来るやつにはみんな、戦争に協力してはいかんとはっきり言ったんです。またぼくは戦争中、隣組の防空班長だったんですが、そんなバカらしいことするもんじゃないと言って防空演習なんか全部やめさせました。ぼくの班はとうとう屋根には上がらなかった100ページ。「防空演習なんかやめさせました」昭和45年)

戦時中の文壇人は日本文学報国会に参加し、戦争協力しました。たとえば東南アジアなどを回って勇ましく戦況を報告するのです。同調圧力の強い日本において金子光晴の態度はかなり危うかったはずです。たとえぱ、私がいまここで「戦争反対」と書くのは簡単ですが、戦時中はどれほどたいへんだったか。以下は、1964年の文章です。

 今日、反戦の尻馬に乗っているような青年をみると、こんどはこちらが、不安と不信を抱かずにいられない。
 かつては、反戦思想とは、安々として人のうしろでわいわいさわいでいられるような生やさしいものではなかった。反戦は、反逆罪であった。(略)獄門首のようなさらしものになるのが、反逆者に対する正しい処置とされていたように、反戦主義者は、国からも人からも呪いをこめ、みせしめとされるより他すべのないものなのだ。今日の反戦的野次馬の顔は、聖戦を謳歌して気焔をあげている景気のいい連中の顔と、すこしも変わった表情でないのをみれば、ことは明白だ。(153ページ。「反戦運動へ天の邪鬼の憂さ晴らし」昭和44年)

反戦の尻馬に乗っている私も肝に銘じます。

戦時下の、全体主義的な状態が近世から連なる階級意識と本質的に変わらないと金子光晴は見抜いていて、上に盲従する人たちを「奴隷」と呼んでいます。

 当時[引用者註=明治期]の人たちの階級感情は、ほんとうは、それを支える実体の在るものではなかった。むしろ、それは、懐旧のノスタルジアで、習慣性になった奴隷的感傷と媚態との持ってゆきどころが欲しかったということろではないだろうか。人間には、劣等意識の安心感というものがある。奴隷根性といってもいい。
       (略)
 奴隷には奴隷のかしこい生きかたがある。反抗できないとはじめからきまっている主人達には、犬ころのように服従することと、仲間を売っても手柄を立ててみせる卑屈な根性を身につけることだ。領主から食禄をもらっている世襲恩顧の武士たちは、事の善悪にかかわらず領主に同調し、領民とのあいだに立って、搾取の実をあげることが任務なのだ。領民の立場は、そのために一層不安定で、領主側の気まぐれな搾取の対象となりながら、何とか上手に生きる道を開拓してゆかなければならない。(略)(15ページ。「階級意識」昭和30年)

全体主義に抵抗し、自由を求めない「奴隷根性」を徹底的に批判する金子は、戦後、「反戦詩人」と讃えられることになります。「反逆罪」の危険を冒した金子からすれば、戦時下で戦争協力した連中に持ちあげられるのは片腹痛い思いだったでしょう。そんな人たちの賛辞に対する回答が、以前引用した「答辞に代へて奴隷根性の唄」だったと私は思っています。(→答辞に代へて奴隷根性の唄 - 狩猟採集民のように走ろう!

……余談です。

本書に、戦時中、戦争に非協力的な文壇人のブラックリストを中河与一が作っていたとあります。中河が1938年(昭和13年)に発表した『天の夕顔』はロマン主義の傑作として世界に翻訳され、カミュにも絶賛されたとか。たしかに日本の小説とは異質な純愛作品ですが、今では誰もご存じありますまい。

ブラックリスト疑惑により、戦後、中河与一は文壇から干されます。しかし、じつは軍部に協力していたのは平野謙や中島健蔵であり、彼らが目くらましのため、中河に責任を押しつけたと、森下節『ひとりぽっちの戦い──中河与一の光と影に書かれていました。

天の夕顔 (新潮文庫)

天の夕顔 (新潮文庫)

 

『湛山回想』

湛山回想 (岩波文庫 青 168-2)

湛山回想 (岩波文庫 青 168-2)

  • 作者:石橋 湛山
  • 発売日: 1985/11/18
  • メディア: 文庫
 

急に涼しくなったのに、なかなかランの調子が上がりません。どこか悪いのかなと感じて、12日土曜日はお酒も飲まずに寝ちゃいました。

さて、最近読んだ本のなかから、またひとつ。

1ヶ月ほど前に『石橋湛山評論集』について書きました。その後、書棚に、いつか買っておいた岩波文庫『湛山回想』を見つけ出しました。GHQによって公職追放されたときに書かれたもので、1951年(昭和26年)に刊行されたようです。明治末から第二次大戦による敗戦直後の近代史としても読めました。総理大臣になる前に書かれているため──解説で補完されていますが──その時代の述懐がないのは少し残念です。

やはり偉い人だなあ。

石橋湛山は1884年(明治17年)に山梨県に生まれました。父親は日蓮宗僧侶です。進学した甲府中学の校長はクラークの薫陶を受けた人物で、どうやら、湛山のリベラル思想は日蓮宗とキリスト教が影響しているらしい。本人も「有髪の僧のつもり」で生きてきたと書いています。

大正デモクラシーや労働運動を鼓舞し、帝国主義を批判した『東洋経済新報』時代は言わずもがな、学生時代や一年志願兵として入営した話もなかなか面白かった。軍隊では社会主義者と見做されて相当警戒されたらしい。彼の戦争反対論には、実弾で練習したさいの経験が反映されていると書かれていました。

『石橋湛山評論集』に収められた第二次大戦中の文章は検閲を逃れるために、真っ向から戦争を否定していませんが、提案みたいな形などで軍を批判していました。昭和18〜19年に内務省警保局長だった町村金五という人によれば、《東条首相から特に東洋経済新報を好ましからぬ雑誌としてうんぬんせられ》ていたそうです。それなのに戦後、戦争に加担したとして公職追放されたのはナゾです。

石橋湛山評論集 (岩波文庫 青 168-1)

石橋湛山評論集 (岩波文庫 青 168-1)

  • 作者:石橋 湛山
  • 発売日: 1984/08/16
  • メディア: 文庫