ううう。13日(日)も調子イマイチ。坂道走っているときは楽しくはありますが……。
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平等分配的な狩猟採集社会から見ると息苦しい現代の階層社会。平等や自由、権力への抵抗を見せた人たちの本を選んで記録しています。最近読んだ、このブログに関連する本をもう一冊。
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金子光晴『自由について』を読みました。サブタイトルに「金子光晴老境随想」とあり、そのテーマに応じて中公文庫が編んだアンソロジーなのでしょう。前回書いたジャーナリスト・石橋湛山と同じく、金子光晴も戦時中に反戦を唱えていました。難解で、すぐにそれとはわからない反戦詩を発表したり、息子の徴兵忌避をしたり……。
とにかく家に来るやつにはみんな、戦争に協力してはいかんとはっきり言ったんです。またぼくは戦争中、隣組の防空班長だったんですが、そんなバカらしいことするもんじゃないと言って防空演習なんか全部やめさせました。ぼくの班はとうとう屋根には上がらなかった。(100ページ。「防空演習なんかやめさせました」昭和45年)
戦時中の文壇人は日本文学報国会に参加し、戦争協力しました。たとえば東南アジアなどを回って勇ましく戦況を報告するのです。同調圧力の強い日本において金子光晴の態度はかなり危うかったはずです。たとえぱ、私がいまここで「戦争反対」と書くのは簡単ですが、戦時中はどれほどたいへんだったか。以下は、1964年の文章です。
今日、反戦の尻馬に乗っているような青年をみると、こんどはこちらが、不安と不信を抱かずにいられない。
かつては、反戦思想とは、安々として人のうしろでわいわいさわいでいられるような生やさしいものではなかった。反戦は、反逆罪であった。(略)獄門首のようなさらしものになるのが、反逆者に対する正しい処置とされていたように、反戦主義者は、国からも人からも呪いをこめ、みせしめとされるより他すべのないものなのだ。今日の反戦的野次馬の顔は、聖戦を謳歌して気焔をあげている景気のいい連中の顔と、すこしも変わった表情でないのをみれば、ことは明白だ。(153ページ。「反戦運動へ天の邪鬼の憂さ晴らし」昭和44年)
反戦の尻馬に乗っている私も肝に銘じます。
戦時下の、全体主義的な状態が近世から連なる階級意識と本質的に変わらないと金子光晴は見抜いていて、上に盲従する人たちを「奴隷」と呼んでいます。
当時[引用者註=明治期]の人たちの階級感情は、ほんとうは、それを支える実体の在るものではなかった。むしろ、それは、懐旧のノスタルジアで、習慣性になった奴隷的感傷と媚態との持ってゆきどころが欲しかったということろではないだろうか。人間には、劣等意識の安心感というものがある。奴隷根性といってもいい。
(略)
奴隷には奴隷のかしこい生きかたがある。反抗できないとはじめからきまっている主人達には、犬ころのように服従することと、仲間を売っても手柄を立ててみせる卑屈な根性を身につけることだ。領主から食禄をもらっている世襲恩顧の武士たちは、事の善悪にかかわらず領主に同調し、領民とのあいだに立って、搾取の実をあげることが任務なのだ。領民の立場は、そのために一層不安定で、領主側の気まぐれな搾取の対象となりながら、何とか上手に生きる道を開拓してゆかなければならない。(略)(15ページ。「階級意識」昭和30年)
全体主義に抵抗し、自由を求めない「奴隷根性」を徹底的に批判する金子は、戦後、「反戦詩人」と讃えられることになります。「反逆罪」の危険を冒した金子からすれば、戦時下で戦争協力した連中に持ちあげられるのは片腹痛い思いだったでしょう。そんな人たちの賛辞に対する回答が、以前引用した「答辞に代へて奴隷根性の唄」だったと私は思っています。(→答辞に代へて奴隷根性の唄 - 狩猟採集民のように走ろう!)
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……余談です。
本書に、戦時中、戦争に非協力的な文壇人のブラックリストを中河与一が作っていたとあります。中河が1938年(昭和13年)に発表した『天の夕顔』はロマン主義の傑作として世界に翻訳され、カミュにも絶賛されたとか。たしかに日本の小説とは異質な純愛作品ですが、今では誰もご存じありますまい。
ブラックリスト疑惑により、戦後、中河与一は文壇から干されます。しかし、じつは軍部に協力していたのは平野謙や中島健蔵であり、彼らが目くらましのため、中河に責任を押しつけたと、森下節『ひとりぽっちの戦い──中河与一の光と影』に書かれていました。