SNS で友人から理不尽(と私が感じるだけかもしれませんが)に絡まれることがあり、そのたび、カチンとくることはあれど丁寧に応対しているつもりなんですが、やりとりを見た第三者から、「◎◎さんがマウントを取りに来てるね」と指摘されたりするんです。つまり、誰かが私を見下そうとしてるという意味なんですが、私はニブいので、「そんなことないのでは?」と返事します。
マウンティングについて書いている友人がいました。男の友人Z──ある女友達によれば、彼はしばしば私にマウントをとろうとしているらしい──がそこにコメント。「マウンティング欲求は誰にでもある」と書いたのです。本人が「誰にでもある」というのですから、Zは私にマウントをとっていたのかもしれません。
そもそも、人間関係について「マウンティング」「マウントをとる」という言葉はなかったのです。あるブログによると、「マウントをとる」が検索ワードとして急増したのは2017年だそうです。『女は笑顔で殴り合う マウンティング女子の実態』という本が出たのは2014年らしい。
もともとは霊長類の序列を確認する行為をマウンティングと呼び、プロレスなど格闘技で使われていた気がします。 それ以前、人より優位に立とうとすることは「格付け」と言われたのだそうです。
お茶大の先生が書いた論文「マウンティングエピソードの収集とその分類:隠蔽された格付け争いと女性の傷つき」(2022→御茶ノ水女子大)というのを読みました。格付けしたがる女性の発言を集め、分析した論文でした。
ドラマのネタ集みたい。
男同士でも、持ち物が高価なことを誇る人とかいます。私はあまり他人と自分を比較しないし、上下関係のない人間関係を理想としているので──と書くと、「そうやって高みに立って冷静さを装うのもマウンティングなんだよ」とマウントをとられそうですが、全然気にしません。どうぞ私の上で腰をお振りあそばせ。
私が知る狩猟採集社会は人間関係がフラットで、学校がないから学歴もないし、リーダーもいません。誰かが獲物をゲットすると、みんな(50〜150人の集団)で平等分配します。獲物をとったハンターは威張ってはいけないことになっていて、分配されるグループのメンバーも「ありがとう」とは言いません。たまさか「俺が今日からリーダーだ」という奴が現れたら、サーッと人が離れていきます。どんな優れた人間だって、一人では生きられないから、威張らないほうがよい。
彼らの社会では、上下関係をつくらないような歯止めがいくつも用意されています。数字は3までしか数えられませんが、それだって、誰が何度分け与えたかを曖昧にするためだと私は考えています。何十万年、何百万年もつづいた狩猟採集社会では、洗練された持続可能な社会ができあがっていたのでしょう。
ところが、ここ数百年で資本主義社会が世界のほとんどを覆い尽くし、持てる者がますます富み、貧しい者は困窮し、誰かが誰かにマウントをとるようになりました。「マウンティング欲求は誰にでもある」なんて言うなら、その欲求を抑える手立てを考えるべし。さもないと、こんなクソ社会、早晩滅びます。