狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

『大衆の反逆』

読まなきゃ読まなきゃ、と思っていたオルテガ・イ・ガゼット『大衆の反逆』を一週間ほど前に読了しました。オルテガは1883年スペイン生まれ。『大衆の反逆』は、1930年に公刊されました。

積ん読状態だった間に、岩波文庫から新訳が出ましたが、私が読んだのはちくま学芸文庫版です。岩波文庫には、「フランス人のためのエピローグ」と「イギリス人のためのプロローグ」が収録されています。私は宇野重規による解説しか読んでいませんけど。

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19世紀になって「大衆」──「平均人」とも呼んでいます──は突如現れました。

(略)大衆とは、善い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は「すべての人」と同じであると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であると感ずることに喜びを見いだしているすべての人のことである。(ちくま学芸文庫、17ページ)

《選ばれた少数者》が18世紀に「基本的人権」と「市民権」を勝ち取ってくれたのに、「大衆」は少数者に感謝することなく、自分たちの権利をさも当然のような顔で威張りはじめ、社会を乗っ取ったとオルテガは指摘します。そして《かつてはその選ばれた者のみが利用していた利器を使用している》というのです。

(略)今日の特徴は、凡俗な人間が、おのれが凡俗であることを知りながら、凡俗であることの権利を敢然と主張し、いたるところでそれを貫徹しようとするところにあるのである。(略)大衆はいまや、いっさいの非凡なるもの、傑出せるもの、個性的なるもの、特殊な才能をもった選ばれたものを席巻しつつあり、すべての人と同じでないもの、すべての人と同じ考え方をしない物は閉め出される危険にさらされているのである。(太字=本文では傍点。21ページ)

本来、凡庸な庶民が従うべき《選ばれた少数者》と大衆とは何が違うのでしょうか。

(略)選ばれたる人とは、自らに多くを求める人であり、凡俗なる人[=大衆]とは、自らに何も求めず、自分の現在に満足し、自分に何の不満ももっていない人である。彼[=選ばれたる人]にとっては、自分の生は、自分を超える何かに奉仕するのでない限り、生としての意味を持たない。

理想に向かって生きるすぐれた少数者に対し、大衆は目標も理想もない根無し草です。

オルテガは、科学者らタコツボ化した専門家も大衆であると断言したあと、大衆の反逆を国家間にも敷衍します。私には、ヨーロッパ中心主義にも感じられますが、ともかく、指導力を失った西洋はヨーロッパ合衆国の創造こそが必要であると結ばれます。

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『大衆の反逆』は、そのまま今の日本に当てはまります。

大衆の一人である私にもオルテガの批判は向けられていますが、十一章の《「慢心しきったお坊ちゃん」の時代》は、日本の世襲政治家の説明さながらです。オルテガが言う「世襲貴族」とは《生まれた時に、突如、しかも、それがいかにしてかは知らないまま、富と特権を有している自分を見いだ》したお坊ちゃんです。《「お坊ちゃん」は、家の外でも家の内と同じようにふるまうことができると考えている人間であり、致命的で、取り返しがつかず、取り消しえないようなものは何もないと信じている人間である》……。

三代目のお坊ちゃん安倍晋三政権以降、日本はアメリカとともに戦争に参加できる国になり、同じく三代目の岸田文雄総理大臣は防衛費を倍増するとか原発を動かすと言いはじめました。前にも書いたかもしれませんが、明治以降は、徳川が薩長に置き換わっただけの封建制社会です。戦後、民主主義になったかと思われましたが、岸信介が首相になったあたりで風向きが変わりました。安倍氏や岸田氏は、権力を握った危険な世襲貴族です。それぞれ甥と長男が四代目お坊ちゃんとして控えています。

Twitterに出没するネトウヨさんたちは、プロフィール欄に「右でも左でもない普通の日本人です」と書きがちです。わざわざ「平均人です」と表明していることになります。彼らはネット上で、社会に警鐘を鳴らす頭のいい憂国の人を左翼と呼ぶんです。三島由紀夫も彼らにとっては左翼に違いない。出る杭を見るたび「お前も平均人になれ」と叩きます。軽々しく差別したりセカンドレイプをしておいて「言論の自由だ」と居直る人もいるようです。

街頭インタビューなどで、どこかで聞いたセリフを自分の意見として話す人の多さも気になります。
「野党は反対ばかり」
「与党に問題は多いけど、野党もだらしない」
「社会保障の充実? 財源はあるのか」(軍拡の財源はあるのか、とは言わない)
「安倍さんのほかにいないもんね」
1500ccもある脳みそで考えだされた言葉とは思えません。宮台真司のいう言葉の自動機械です。

私は、特定の人たちに多くの人が服従する社会はご免です。しかし、優れた人たちや意見を罵倒する現在の風潮を是認するわけにはいきません。大切なのは口論による分断ではなく対話による合意形成であるはずですが(それが民主主義だもの)、みんなが対話をする方法が今のところ見つからず、途方に暮れています。