荻上チキ・内田良編著『ブラック校則』を何日か前に読みました。非人権的な校則を調べ、なにがおかしいのかをいろんな人が論じた本です。私にとって「新発見」ではなく「再確認」といった内容でした。以下は、まとまりのない雑感です。
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私にとって学校は「当然行くべきところ」でした。たぶんみなさんそうでしょう。イヤもオウもありません。毎朝向かうことに疑問をはさまなかった。「お化けにゃ学校も試験もなんにもない」という歌を聞くと鬼太郎たちがうらやましかったもんです。
待てよ……最近知った狩猟採集社会には鬼太郎の世界と同様、学校も試験もありません。子供たちは大人の真似をしながら遊び半分、狩猟や採集を自然に体得していきます。脳味噌は九九を覚えるのにあるわけではなく、サバンナやジャングルで生きる知恵を学ぶためにあるものなのです。
20世紀、彼らは国家権力から近代化を求められ、「子供は学校に通え」と命じられます。号令に従って子供全員が行くわけありません。窮屈ですから。
では、学校は、誰がなんのために発明したのでしょうか。
大学時代、脳味噌から汗を流してミシェル・フーコーの主著を何冊かを読みました。フーコーは「監獄」が近代の監視システムであり、学校もそのひとつであると看破しています。学校は監獄同様、権力がひとびとを拘禁・監視し、規律にしたがうよう訓練する装置なのです。
理不尽な校則を見てもわかります。日本の高校までの教育システムは個々の能力を伸ばすというより、上下関係や理不尽な校則に忍従することを徹底的にたたき込み、「社会の歯車」を養成するのが目的だとしか思えません。戦前ならいい兵隊さん、戦後ならいいサラリーマンをつくるためにあるようです。「ごきげんよう」と挨拶するような、戦前からある名門女子校がありますが、あれらは、いいお嫁さんを育成することが期待されていました。
すなわち日本の学校は「自分で考えるな」という訓練をしているようなものです。旧弊を打ち破り、例のないクリエイティブな発想をする人間は育ちません。それなのに、社会に出ていきなり「指示待ち人間になるな」「自分で考えろ」だなんて言われるんだから矛盾してます。
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尾崎一雄という私小説作家に「虫のいろいろ」という短編があります。病気がちで臥せっている主人公が、蜘蛛、蠅、蜂などの観察や知見を挿入しながら自分の人生について考えます。そのひとつに蚤の曲芸の話が出てくるんです。
また、虫のことだが、蚤の曲芸という見世物、あの大夫の鋳込み方を、昔何かで読んだことがある。蚤を蚤をつかまえて、小さな丸い硝子玉に入れる。彼は得意の脚で跳ね回る。だが、周囲は鉄壁だ。散々跳ねた末、若しかしたら跳ねるということは間違っていたんじゃないかと思いつく。試しにまた跳ねて見る。やっぱり無駄だ、彼は諦めて音なしくなる。すると、仕込手である人間が、外から彼を脅かす。本能的に彼は跳ねる。駄目だ、逃げられない。人間がまた脅かす、跳ねる、無駄だという蚤の自覚。この繰り返しで、蚤は、どんなことがあっても跳躍をせぬようになるという。そこで初めて芸を習い、舞台に立たされる。
このことを、私は随分無慚な話と思ったので覚えている。持って生れたものを、手軽に変えて了う。蚤にしてみれば、意識以前の、したがって疑問以前の行動を、一朝にして、われ誤てり、と痛感しなくてはならぬ、これほど無慚な理不尽さは少なかろう、と思った。
ブラック校則について読みながら、蚤の曲芸を思い出しました。そもそもこの話は本当だろうかと検索していると、Wikipediaに「ノミのサーカス」という項目(→Wikipedia)があるのに気づきました。こう書いてあります。
「蚤のサーカス」は教育の分野で一種の警句として用いられる場合がある。サーカス用のノミの訓練の最初の段階で、背の低い箱にノミを閉じ込め、ジャンプすると頭をぶつけるようにすることで、みだりに高く撥ねないように訓練すると伝えられており、このことから、何かしようとする子供の頭を押さえ付けることで、無意識に子供が伸びないようにしてはいないか、との意味である。
私が思いつくようなことは誰かが気づいているということです。