狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

通天閣から、大阪ディープサウスへ。

9月3日、オダサク散歩──炎天下2万歩コース──のあと、クタクタになって安ホテルにチェックイン。この日、昼メシになにを食べたんだっけな……まったく思いだせない私。朝・昼は抜いたのかもしれません。(追記=朝、早く出かけすぎてしまい、広島市内のファミレスっぽいところで午前8時頃朝食を食べたら、ずっとお腹が空かなかったのでした。夜は20時頃、ホテル近くの町中華で。案外うまかった)

ホテルは新今宮近辺です。少し寝ようかと思ったのですが、うまく寝られず、しかたねえ、通天閣にご挨拶だ。

大阪ディープサウスのお勉強をしている身にとっては、現役通天閣と初代通天閣の写真は──その下で寝ている男性含め──興味深い。

1903年(明治36)、大阪で第五回内国勧業博覧会が行われました。凱旋門とエッフェル塔を合体させたような造形の大林高塔を建てます。これを鉄筋にして1912年(明治45)に完成したのが、初代通天閣です。博覧会当時から一帯は新世界とかルナパークと呼ばれ、一時期賑わいます。すなわち、戦前の大阪を舞台にした物語に出てくるランドマークはこちらをイメージすべきです。たとえば、村田英雄「王将」の「空に灯がつく通天閣に俺の闘志がまた燃える」はこれなんです。

内国勧業博覧会開催の目的のひとつは、堺筋(日本橋筋)沿いに拡がっていた近世以来の貧民窟、いわゆる長町スラムを一掃することにありました。天皇が来るのに、あんな場所を通すわけにはいかない、というのです。警察とヤクザが結託して貧民窟を毀していき、下層民衆は南方面に移動して釜ヶ崎が形成された、というのは(異論はあるものの)よく知られている説だそうです。

初代は1943年(昭和18)に解体されました。現在の通天閣は、戦後、建て直されたものです。通天閣の南には大阪ジャンジャン横町があり、外国人観光客がたくさん。有名な『三桂クラブ』も賑わっていました。織田作之助「六白金星」や朝ドラ『ふたりっ子』では通天閣の地下の将棋道場が出てきました(阪本順治監督の映画『王手』にも出てきたかな)が、今はありません。

なおも歩いて、飛田新地へ。

大正初期、衰退する新世界に、「大正芸妓」と呼ばれる酌夫(やとな)が出現、花街になって賑わいますが、行政は取り締まりに悩みます。大正芸妓を取り締まる一方で、1916年(大正5)年、飛田への新遊廓設置を決定します。さらに、1912年(明治45)1月の「ミナミの大火」により難波新地が灰になり、その代替地として飛田が栄えることになったのだとか。

──と、勉強したので、西成方面をぐんぐん歩いて遊廓に行きました。いわゆるところの「ちょんの間」です。何十軒も並んでいる料理屋(の体)の玄関先で、遣り手婆と女の子が「寄ってって」と招くんです。噂には聞いていたけど、華やかな女の子たちばかりだこと。いちおう、料金などを調べていたので、夕食代だけ持って、ホテルにおカネを置いてきました。そうしないと、どこかの店に引き寄せられたかもしれません。

ここにも外国人観光客がいました。そりゃそうだ。アベノハルカスに行くより、新世界や飛田新地のほうが面白いには違いない。ただし、家族連れはさすがに見かけなかった。

翌朝、日の出前に起きて、通天閣あたりを散歩しました。